2023年11月
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一向寺 年間予定表

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令和5年 一向寺 年間予定

 1月1日ー1月4日 修正会(本堂)

 3月18日—3月24日 春彼岸供養

 5月27日(第四土曜日) 大施餓鬼会法要

 7月13日—7月16日 東京、神奈川地区の盆供養

 (新盆供養のお宅には棚経のため14日に住職が伺います。)

 8月13日—8月16日 盂蘭盆会供養(盆供養)

 (13日が仏様のお迎え、16日がお送りです。新盆供養のお宅には棚経のため、

  14日(市内)、15日(地区外)に住職が伺います。)

 8月22日(火曜日)新盆施餓鬼会法要(新盆の仏様のいる檀家様対象)

 9月20日—9月26日 秋彼岸供養

 11月17日(金曜日) 開山忌法要

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駐車場のおしらせ

 一向寺の二大行事、大施餓鬼会法要と開山忌法要にお車でお越しの際には、一向寺西門から入って、本堂裏側の多目的広場に駐車してください。ただし、駐車可能な台数にも限りがありますので、できるだけ乗り合わせや公共の交通機関でお越しいただければ幸いです。

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年回法要(一向寺本堂内に故人のお名前が掲示してありますので、ご確認ください)

 一周忌:  令和4年

 三回忌:  令和3年

 七回忌:  平成29

 十三回忌: 平成23

 十七回忌: 平成19

 二十三回忌:平成13

 二十七回忌:平成9

 三十三回忌:平成3

 (三十七回忌:昭和62年)

 (四十三回忌:昭和56年)

 ((四十七回忌:昭和51年)

 五十回忌: 昭和49年

2023年1月 1日 (日)

令和5年 新年一向寺通信

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謹んで新春のお慶びを申し上げます。

 

2022年6月14日 (火)

令和4年度大施餓鬼法要の様子

 令和4527日夜半の突然の雷雨、強風のため、大施餓鬼法要を修行した528日は、檀家様にお手伝いいただきながら、早朝から境内の掃除から始まりました。幸いなことに、当日の天気は良好でした。新型コロナウィルス感染症(COVID-19)が未だ収束していない状況を鑑み、昨年同様、出来る限り「三密」をさける方針で、檀家様方には、境内での法要参加といたしました。

法話の講師は、現場の最前線で、新型コロナウィルス感染症を診療されている、佐野厚生総合病院副院長、井上卓先生にお願いしました。

法要も昨年同様、住職と随喜僧侶のみが本堂で法要を行ない、焼香台は、本堂入り口前に設置し、階段昇降は、右側上り、左側下りと分けるために、カラーコーンを置き、並ぶ際もそのカラーコーンの位置に並んでいただきました。

 法要の中で卒塔婆を供(くう)じた後、卒塔婆を本堂から境内内の卒塔婆置き場に移動し、お焼香後は、境内墓地の方は卒塔婆を外で受け取り、院外墓地の方は翌日、それぞれの墓地に卒塔婆を取りに行っていただきました。

 写真1は、大施餓鬼法要前の様子です。急に真夏の暑さとなったため、急遽テントを用意しました。また木陰となる紅葉の木に椅子を、また梅の木の下に椅子と縁台を移動し、そこにお座りいただきました。
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写真1

 写真2は、井上卓先生が実際に講演されている様子です。猛暑対策のため、「朱傘」に下で講演していただきました。

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写真2

2022年6月13日 (月)

新型コロナウイルス感染症を診療して感じること

令和4年5月28日 一向寺大施餓鬼法要 法話資料

厚生総合病院
 内科 副院長 井上 卓(たかし)氏

新型コロナウイルス感染症を診療して感じること


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※公開の許諾を得ております。

2022年6月12日 (日)

ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第十五回

 コロナ禍のための外出自粛で、寺坊にこもる時間が多くなったことを利用して、二年掛で、難解で知られる西田幾多郎(にしだきたろう)先生の哲学を、小坂国継(こさかくにつぐ)先生の解説を頼りに格闘した。西田先生は、宗教の問題は我々が、自己矛盾的存在であることを自覚した時、我々の「自己存在そのものが問題」となる時に生じるのだという。そして自己存在の根本的な自己矛盾の事実は「死の自覚」にあるともいう。つまり宗教の問題は、価値の問題でもなく、より良く生きるため、というのはあくまで二次的な問題だという。死を前にして、自己存在が否応なく揺れ動くことによって生じる苦しみをスピリチュアルペインという。この苦しみについては、八年前の平成二十六年『遊行』お盆号から平成二十七年『遊行』お盆号まで「ドクター・ミネの毒舌健康法話」で説明した。例えば、仕事人間だった方が、自分の仕事を人に認めてもらうことに、生きがいを感じていたのに、死を目前にして、人生を振り返った時、自己矛盾的に、

「今までの俺の人生は、全く意味がなかったのではないか」

といった嘆きが生じる。これがスピリチュアルペインである。

 
 スピリチュアルペインは、終末期の癌患者が入院する、緩和ケア病棟でしばしば問題となるが、何も緩和ケア領域だけで起こるわけではない。特に介護が必要となった高齢者は、スピリチュアルペインの塊だともいわれている。ドクター・ミネも高齢者の一員となり、当然コロナワクチンも「高齢者枠」で接種を受けた。ただ、同じ終末期医療でも、老年期前の癌患者と、高齢者の場合とでは、特にスピリチュアルペインが少々異なるように思える。

 現役の内科医であった時代、ある高齢者から聞いた言葉である。

「先生は若いから、新聞は一面から読むでしょう。でも私たちの世代になると、新聞はまず「お悔やみ欄」から読みます。知っている名前がないと、ホッとします」

どうやら高齢になる程、死が身近な出来事に感じられるようである。また、当時七十代後半であった、戦争体験者の患者の話である。

「私は昔、零戦に乗っていました。出撃していくと、必ず何機か撃墜されました。自分一人が生還したこともありました。戦艦大和の最後の出撃も、飛行機の中から見送りました。この次の出撃では、死ぬのは俺だと思って、いつも出撃していました。でも、死ぬのが怖いと思ったことは、一度もありませんでした。それがこの年になって、先生の外来に通うようになって、正直、死ぬのが怖いのです」

また、当時八十代であった女性は、ちょっと咳が出ると、肺癌になったのではないか、ちょっと頭痛がすると、脳腫瘍になったのではないかと、しょっちゅう外来受診していた。検査をしても異常はない。いわゆる「癌ノイローゼ」である。ある時、その老婦人はこんなことをいった。

「娘時代、東京大空襲を経験しました。まさに火焔(かえん)地獄でした。隅田川には、大勢の焼死体がありました。若いお母さんが、せめて子供だけは助けようと、隅田川の中で、必死で子供を持ち上げて、その状態で子供共々焼け死んでいました。自分がどうして生き残ったのかわかりません。でもあの頃は、死ぬのが全く怖くなかった。80を過ぎて、この年になって、十分生きたはずなのに、死ぬのが恐ろしいのです」

どうやら、高齢になると、死に対する恐怖感は増すようである。

 サクセスフルエージングだの、アンチエージングなどという、老化に対抗するための宣伝が巷に溢れている。確かに老化に対する研究が進んでいることも事実である。一方で、老年的超越、つまり老いに逆らわず、ありのままを受け入れ、自然に任せるという方法、つまり仏教でいう「自然法爾」という老いの受け止め方もある。

2022年6月11日 (土)

ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第十四回

 この原稿を令和4年1月に書いている。新型コロナウィルス・オミクロン株の大流行で、1都18県にまん延防止等重点措置が発令され、8道府県も追加発令が検討されている。三回目のワクチン接種の前倒し、そして医療崩壊や保健所崩壊を防ぐための方策も検討されている。しかし国民は、恐怖感があるにせよ、以前ほど慌てなくなったように思える。「慣れ」により鈍感になるのは心配だが、手探りであるにせよ、「コロナと共に」生活するという生活スタイルが今後、より一層加速、定着していくことであろう。

 さて、今回の話は、師匠のH教授(愛称おっさん)から聞いた、患者のエピソーである。ある高齢の大先生が入院されたが、病気は良くなったのに、一向に元気が出ないという状況が続いていた。そこで、当時話題を集めていた「音楽療法」を試みることになった。この大先生はクラシック音楽に大変造詣の深い方だったので、代表的なクラシック音楽を聴かせたのだが、一向に改善しない。ある時たまたま「演歌」を聴かせてみたら、段々と元気が出てきたというのである。一方、あるご老僧の、本葬のお手伝いに行った時のことである。何故かモーツアルトのレクイエムが流されていた。その理由を喪主の僧侶に尋ねたところ、ご老僧はモーツアルトが大好きだったから、との事であった。失礼ながら、生前中のイメージとは、大分かけ離れていたので、大変驚いた。

 音楽というのは、その曲を聴くと、過去の「あの時に、あの場所で、あの人と」が蘇るという不思議な魔力を持っているように思う。ドクターミネは、アダモの「雪が降る」を聴くと、浪人時代、同級生の下宿で、一緒に、最後の追い込み勉強をしていた頃を思い出す。また山口百恵さんの「いい日旅立ち」を聴くと、妻と初めて出会った時のことを思い出す。たまたま二人が乗ったタクシーでかかっていた曲である。

 また歌の場合、その歌詞が心に響くこともある。ドクターミネは高校生時代に聴いたグレープの「精霊流し」の歌詞に

「あなたの愛した母さんの 今夜の着物は浅葱色」

とある。浅葱色が、かつて武士の喪服の色であったことを、あの時学び、この歌の持つ意味を知った。杉田二郎さんの「ANAK息子」の歌詞は、思春期の子供を持つ親となった時に、深く心に響いた。また三波春夫さんのデビュー曲「チャンチキおけさ」の三番の歌詞には

「故郷を出る時 持って来た 大きな夢を盃に そっと浮かべて もらすため息 チャンチキおけさ」

とある。ドクターミネはかつて、「俺は一流研究者となって一旗揚げるんだ」という、途方もない夢を追いかけて、女房子供を抱えて、故郷を離れた。師匠(おっさん)の、「みねちゃんは、研究には向いていないと思うよ」という言葉を振り切るように、飛び出していった。結果「チャンチキおけさ」の三番の歌詞通りになった。師匠のおっしゃる通りであった。今でもこの歌を口ずさむと、もがき苦しんだ、あの頃のことを思い出すが、しかし今では、何故か懐かしくも思える。

 地元の葬儀屋さんで執り行われる通夜、葬儀では、バックグラウンドミュージックとして、エレクトーンの演奏がある。一般的には、お浄土へ送り出す、という思いが伝わるような選曲がなされているようだが、時に、あまり、場にそぐわないように感じられる、意外な曲を演奏されることもある。それは大概、故人が生前中好きだった曲である。ドクターミネは気が滅入ると、自分を奮い立たせるために、一人車の中で、大声で演歌を歌っている。確かに好きな曲ではあるが、葬儀のバックグラウンドミュージックとしては…。

 

2021年12月31日 (金)

一向寺通信 令和4年新年号

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ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第十三回(令和4年正月)

 この原稿を令和3年10月に書いている。新型コロナウィルスに対するワクチン接種率も国民の70%に達し、長かった緊急事態宣言がようやく解除となった。未だ医療逼迫が続いていることもあり、手探りではあるが、少しずつ元の生活に戻りつつある。だが、これからが正念場であろう。経済立て直しが必要だろうし、国家財政もこのコロナ禍で赤字が膨らんでいる。コロナ禍のオリンピック・パラリンピックは無観客での開催であったので、オリンピック関連の借金も相当なものに違いない。一国民として、これからの国家の動向に注意を払いながらも、自分の生活を維持するために、眼前の問題を一つ一つ解決していかなければならないであろう。

コロナ禍の時代だからこそ、令和3年の『遊行』では、ドクターミネの研修医時代の師匠であるH教授(愛称おっさん)の訓戒を、二回にわたって紹介した。医学という自然科学の領域では、確かにロジック(論理)は重要である。例えば、予防の第一はマスク着用であるが、そもそもコロナウィルスの大きさは100nm、つまり一ミリメートルの一万分の一である。当然マスクの繊維の網目を楽々通り抜けることが可能な大きさである。大昔から風邪やインフルエンザといったウィルス感染予防にマスクが使用されてきたが、論理的に考えれば、本当に有効なのかが問題である。インフルエンザよりはるかに毒性も感染力も強力なコロナ対策のために、マスクが有用であるか否かを、科学的に証明するためには、まずは誰もが納得できる論理に基づいた実験デザインが必要であり、得られた結果も論理的に解釈する必要がある。現在では、論理に基づいた動物実験及びボランティアの医療従事者による臨床実験によって、マスクの有用性が証明されたために、それらを論拠として、世界中でマスク着用が推奨されているのである。

ただ、実際の医療現場では、患者とその家族に対して、証明された医学的事実に基づいて、論理的に説明するだけで、全て納得してもらえる訳ではない。いくら論理的に説明しても、感情が入ると、中々納得してもらえないこともある。そもそも脳は、論理的思考を司る領域と、感情を司る領域とは異なるのであるから、双方は連絡があるにしても、やむを得ないとも言える。これが、哲学の領域では「自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう)」と言われるものだと、後に知った。情緒的な問題、倫理的な問題と、自然科学的な事実とは本来次元が異なるが、これを同一視することによって生じる誤りである。例えば、コロナに対するワクチン効果が科学的に証明されてきているが、これらの事実をもって、「だからワクチン接種を受けるべきである」といった倫理的結論を導き出せない、ということである。「でも私は受けたくない」というのは感情の問題であるから、いくら科学的根拠を示されたところで、中々翻意(ほんい)してくれないのはそのためである。「ワクチン接種を拒否する権利がある」と主張する人さえ世界中にはいると聞く。

 人間とは不思議なもので、理路整然とした論理で説明されても、必ずしも納得できないことがある。反論できないが、どことなく「胡散(うさん)臭い」という感情が残る場合がある。「納得」というのは、理性と感情の、両面があるともいえる。論理の展開に重要なのがIQ(知能指数)ならば、感情に訴えかける上で重要なのがEQ(心の知能指数)である。EQの高い人は、リーダーとして人をまとめることに長けているし、説得能力も高い。

 いずれにしても我々人間界は、言葉によりお互いが理解し合う世界、といえるであろう。以心伝心というぐらいだから、仏の世界はそもそも言葉を必要としない世界かもしれない。それでは「地獄」とは、言語道断、問答無用の世界ということか。

ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第十二回(令和3年秋彼岸)

 新型コロナウィルス感染症大流行の中、今年の『遊行』正月号で、ドクターミネの研修医時代の師匠であるH教授(愛称おっさん)の訓戒を紹介した。7月にその師匠から暑中見舞いをいただいたので、改めて師匠の「おっさん」の訓戒を思い出した。

「治療に関するポリシー(方針)を示せ。ロジック(論理)を示せ。例えば、血圧が低下した理由は○○だと判断して、昇圧剤を投与しました、といった程度のロジックでもいい。ロジックを示せば、そのロジックの展開に誤りがあれば、誤りを正してやることができる。しかし単に、血圧が下がったから昇圧剤を投与しました、と答える馬鹿者に、私は何を教えればいいのか。」

 この訓戒の重要さを、後々嫌だという程実感する場面に遭遇した。

ようやくワクチン接種が軌道に乗り始めたというのに、その足を引っ張るような、デマ情報を流す輩がいる。情報の「匿名性」の最大の問題点と言える。例えば、ワクチン接種によってコロナに感染するという情報は誤りである。mRNAワクチン(ファイザー製、モデルナ製)にしても、ウィルスベクターワクチン(アストラゼネカ製)にしても、コロナウィルス自体を接種する訳ではないので、ワクチンでコロナに感染することはあり得ない。「コロナワクチン接種が原因でコロナに感染することはあり得ない」と断じることができるのは、医学的論拠が無いからである。「おっさん」の口癖だった、ロジックの展開には、必ずその論拠、つまり「なぜそうなのか」という理由が必要である。論拠(理由)が明らかでない情報は、デマ情報だと考えて良い。「人からこう聞いた」とか「ネットで皆がこう言っている」的なものは論拠にはならず、あてにならない。信じて良い情報か否かを自分で判断できなければ、主治医の先生に尋ねるのが最良の方法であろう。

ただワクチン接種の場合、副反応は体験できても、その効果は実感しにくい、という問題点がある。ドクターミネは二回目接種の一日後、接種部位の痛みとだるさを感じた。現在コロナに感染していないが、それは、ワクチンのおかげで感染していないのか、それともたまたま感染の機会が無かっただけなのかがわからない、ということである。この、副反応は体験できても、その効果は実感しにくい、という問題が、ワクチン接種を躊躇する人達を生み出す事になる。カーネマンらが提唱した「プロスペクト理論」は、同じ程度の利益と損失では、損失の方を重く受け止める、という理論だ。ワクチン接種による利益(感染予防)と損失(副反応)では、常識的には利益が圧倒的に大きいにもかかわらず、ごくごく稀におこる重大な損失(副反応)に怯えて「ワクチン接種をしない」人も結構いると聞く。しかも、ひとは経験したことのないような危険や脅威を過小評価するという正常性バイアスも働く。テレビ報道で、感染者数がこれ程増加したと大騒ぎしても、周囲に感染者がいなければ危機感がわかず、「どうせワクチン接種しなくても、私は感染しないだろう」と思ってしまうのである。しかし現在大流行しているデルタ株の新型コロナウィルスは、感染力も毒性も、以前の株に比べて強くなっている。もし感染して発症すれば、命の危険に晒されるのは自分だけではない。たとえ命をとりとめても、高率で後遺症に悩む事になる。

 最後に、九十歳になる師匠「おっさん」からの手紙を紹介する。

「繰り返す新型コロナ感染拡大も第五波となり、仲々科学的対策が進展しない混迷に、無責任な指導者達と倫理のない社会を感じています。お笑い中心のメディアも、眞面目なリベラルアーツを或いはクラシックの本質を駆逐して、義務教育の本質を教育していない結果と思はれます。先生のような宗教家の活躍が期待されます」

師匠、不肖の弟子に大それた期待をかけていただいても…。

令和3年度 一向寺開山忌法要法話

「故郷に還る」ということ

 

「故郷」と聞くと、私はすぐに頭に浮かぶ歌がありまして、それが『チャンチキおけさ』です。昭和32年の大ヒットした曲で、三波春夫さんのデビュー曲だとと聞いています。この歌は、特に三番の歌詞が切ないんですよ。

  三番:

   故郷(くに)を出る時 持って来た

   大きな夢を 盃に

   そっと浮かべて

   もらすため息 チャンチキおけさ

   おけさ涙で くもる月

 

故郷を思い出すときに、何が切ない原因かといえば、この三番の歌詞にもあるように、「くにを出る時持ってきた大きな夢」だと思うのですよ。昔も今も、故郷を出る時には、大なり小なり、夢を抱いて出て行きます。ところが、時がたつにつれて、現実という大きな壁が立ちふさがる。かといって、逃げ出すこともできない。夢がいつの間にか、一片の桜の花びらのように見えてくる。酒を注いだ盃を眺めながら

「大きな夢を 盃に そっと浮かべて もらすため息 チャンチキおけさ」

ですよね。

 ここにいらっしゃる皆様方はどうでしょうか。生まれてからこの方、ここ古河近辺でずっと暮らしで来られた方もいらっしゃるでしょう。または、仕事の関係などで一旦故郷を離れたけれど、また故郷に戻ってこられた方もいるでしょう。だれの言葉が忘れてしまいましたが

「男は故郷に帰ろうとし、女はそこに故郷をつくる」

これは言い得て妙ですね。この言葉を裏付けたのが、アラン ウイルソン博士です。アランの研究の主体は、そもそも人間の祖先はどこからきたのか、という問題であり、これを母親からのみ引き継ぐ、ミトコンドリアの遺伝子を解析するという方法により、今から約15万年前、中央アフリカあたりに住んでいた一人の女性にたどり着きました。この女性を「ミトコンドリア・イブ」と名付けました。私達は日本人であろうがアメリカ人であろうが、すべてがこの「ミトコンドリア・イブ」という女性の子孫です。人類共通の偉大なる「おっかさま」です。実はこの研究の副産物として、おもしろいことがわかりました。人間の多様性や遺伝性疾患を防ぐためには、遺伝子が広く拡散することが重要なのですが、その遺伝子の拡散に大いに関与していたのが、女性であることもわかりました。つまり女性が、色々な場所に「嫁いでいく」ことによって、遺伝子が広く拡散していったのです。ここにいらっしゃる女性の方々の中には、故郷は全く別で、ここ古河には、嫁いでやってきた、という方もいらっしゃるのではないでしょうか。この地に定住して子供を育てる。その子供達にとっては、母親のいるこの地が、今度は故郷になります。まさに「女はそこに故郷をつくる」というのは、言い得て妙ですよね。

 一方男にとっての故郷とは何か。それは童謡『ふるさと』の三番にあるように、「志をはたして いつの日にか帰らん」という場所なのかもしれませんね。故郷に錦を飾りたい、いつか志を果たして故郷に凱旋したい、という思いが少なからず男にはあります。

 この問題を考える上で、いつも思い出すのが、司馬遼太郎氏原作『坂の上の雲』です。何年か前に、NHKが年末歴史番組として取り上げましたので、ご覧になった方もいることでしょう。主人公は3人で、共に幕末伊予の国、つまり現在の愛媛県の松山城下に武士の子として生まれました。その3人とは、正岡子規、彼の同級生である秋山真之(さねゆき)、そして秋山の兄の秋山好古(よしふる)です。確かテレビでは、正岡子規役は香川照之氏、秋山好古役は阿部寛氏、そして秋山真之役は本木雅弘氏でした。33様に、志を立てて故郷を後にしました。

 三人の中で、現在最も有名人は、正岡子規でしょう。「俳句中興の祖」として教科書には写真付きで掲載されていますし、故郷松山市には現在、子規記念博物館がありますから、まさに故郷に錦を飾った人、ということになります。しかし当時彼は、ほぼ無名に近いまま、東京下町の片隅で、わずか32歳で、結核で亡くなりました。しかも脊髄カリエスのために晩年は下半身麻痺で寝たきりの状態となり、母親と妹の律さんに介護されての人生でした。彼自身、まさか100年後に、故郷に自分の記念館ができるなど、予想できなかったことでしょう。

 その反対に、男たちの憧れの人生、つまり生前中に故郷に錦を飾り、家族に看取られての大往生を遂げたのが秋山好古です。上京して陸軍軍人になりましたが、かつての松山藩のお殿様である久松候が、フランスに軍事留学したいと言い出したものですから、かつての御家老様から、軍人になった者が誰かお供についていけということになり、結局秋山に白羽の矢が立ちました。秋山はフランスの陸軍士官学校で、騎兵部隊に出逢います。車の無かった時代、馬が最も速い移動手段でしたので、騎兵部隊の機動力は重要でした。しかもヨーロッパは中世以来、日本でいう武士に相当するのが騎士であり、彼らは伝統的に馬に乗って戦っていましたので、それぞれの国で独自の騎兵部隊をもっており、秋山はここで、フランス式の騎馬部隊の養成、そして用兵の仕方を習い、帰国して、日本初の騎馬部隊を創設しました。そして彼が創設した騎馬部隊の真価を問われたのが、日露戦争です。世界最強の騎馬部隊である、ロシアのコサック騎兵部隊と戦うことになりました。相撲で例えれば、入門したての新弟子が、いきなり横綱に戦いを挑むようなものです。騎兵隊同士の決戦では100%負けがわかっていたので、騎兵部隊の機動力を生かして、敵陣奥深くに侵入し、実際にコサック騎兵隊と戦うときには、馬を下りて、通常の歩兵同様陣地を構築し、そこで迎え撃ちました。何度も壊滅の危機に瀕しながら、それでも紙一重で、打ち破られることなく、陣地を守り抜きました。その功績もあり、秋山好古は、最終的には陸軍大将で退役した後、故郷の松山から要請を受けて、新設の旧制中学の初代校長に就任しました。まさに、志を果たして、故郷に錦を飾りました。そして最後は東京に戻り、家族に看取られて、71歳での大往生でした。

 一方、当時世界的な有名人となったのが、秋山真之です。彼は東郷平八郎元帥率いる連合艦隊旗艦「三笠」に作戦参謀として日露戦争に従軍し、有名な「T字戦法」を立案し、ロシアのバルチック艦隊を撃滅しました。そのため「General Akiyama」の名前は、世界中の海軍将校では知らない者がいないほど有名になりました。ただ、海軍中将に昇進する直前、今だったら決して死ぬ病気ではない、虫垂炎から腹膜炎となり、現役の軍人であった49歳の時、死亡しました。彼は若い頃から観戦武官として、世界中を見てきましたので、特にアメリカの国力、底力を実感していました。ですから「アメリカ、イギリス何するものぞ」と息巻く若い軍人達に対して、アメリカと決して事を構えるな、アメリカと戦えば国が滅ぶと、周囲にいた若い将校に遺言し、日本の未来、日本帝国海軍の未来を憂いながら死んでいきました。結果は皆さんもご存じの通りです。彼自身、志を果たした、とは思えなかったかもしれません。

 考えてみると、故郷に錦を飾る、志を果たして故郷に戻るというのは、大変難しいことなのかもしれませんね。私は19歳の時、大学進学のために故郷を離れ、その後、神奈川、栃木、そして英国ブリストルに住み、36歳の時に古河に戻リました。古河に戻るまでの自分を思い出すと、「大きな夢を盃に そっと浮かべて 漏らすため息 ちゃんちきおけさ」の連続でしたね。

 人はね。例えば、あいつの半分の能力しかないという現実を、素直に受け止めることができないものですね。今から思うと、精一杯背伸びをしながら、つま先立ちで、前のめりになりながら、必死で前へ前へと歩んでいたように思えます。しかし、大した成果はあがリませんでしたね。「故郷に錦を飾る」というのは存外にしても、志を果たした、といえるかどうか、正直微妙ですね。ただある意味、回り道をして、身を削ったおかげで、己の能力の限界を自覚できただけでも、めっけもの、だったかもしれませんね。

 65歳になって改めて思うことがあるのですが、法然上人が晩年、南無阿弥陀仏で極楽浄土に往生することを「故郷に還る」ことだとおっしゃいました。これをどのように理解して受け止めたらいいのか。元々私達は、浄土からこの世に生まれてきた訳ではありません。極楽浄土にいらっしゃる仏様や菩薩様が人間として生まれ変わった人など、一人もいません。人間はどこまでいっても人間であり、仏や菩薩が生まれ変わることはありません。それを充分に理解していたはずの法然上人が、どうして浄土に往生することを「故郷に還る」と感じておられたのでしょうか。

 そもそも私達が感じている故郷というのは、どこにあるのでしょうか。童謡『ふるさと』にあるような「ウサギ追いし かの山」は、古河にはないにしても、「小鮒つりし かの河」は、かつては確かにありましたが、今も現存していますか?私が子供の頃、よくザリガニやドジョウをとった水田の用水路や小川も、もはやどこにも残っていません。場所だけではありませんよ。人もそうです。年を経るうちに、故郷の懐かしいあの人はすでにお浄土の人になっていたり、いつも一緒に遊んでいた懐かしい友に、久しぶりに会ったら、誰だかわからなくなるほど髪の毛が涼しくなっていたりする。大好きでも、告白すらできなかった初恋の人に久しぶりに会ったら、驚くほど横に成長していて、「おーい。俺の初恋を返せ!」なんてことにもなりかねない。まあ、これはお互い様か。地域も人も無常なのです。絶対に変わらない故郷というものは、この世にはどこにもありませんよ。でもね。私達それぞれが、あの時、あの場所で、体験した「時」だけは過ぎ去ることはなく、ちゃんと此の身に備わっているのです。夏の暑い日にふっと思い出す。子供の頃、友達と夢中で遊んで帰ってきたら、おばあちゃんが井戸の中からスイカを取りだしてきて、切ってもらったスイカを夢中で食べたこと。ザリガニ取りに夢中になりすぎて、服を真っ黒にして帰ったら母親に叱られたこと。友人と夜遅くまで花火をやったこと。故郷って、結局はそういう過去の思い出の体験の中にあるのではないでしょうか。だって、志を果たして生まれ故郷に帰ってみたら、そこには自分のことを記憶している人が誰もいなくて、まるで浦島太郎のようだったということもあるのですから。

 結局私達は、故郷で過ごした無数の体験の「時」と、故郷で得た無数の縁、一切合切を抱えて浄土にいきます。浄土で、懐かしい人達と再会する事で、故郷の懐かしい光景が広がるのであれば、浄土に往生することが故郷に還ることになるのではないかと、なんとなく思っている次第です。

2021年6月13日 (日)

ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第十一回(令和3年お盆)

 思い返すと、昨年4月に新型コロナウィルス感染症のため緊急事態宣言が出される事態となった。この未曾有の出来事に、日本中が揺れたが、未だに終息されていない。延期された東京オリンピック開催がどうなるのか、心配しながら、これを執筆している。

 その影響を受けて、昨年五月の当山大施餓鬼法要は、従来の法話は中止して、檀家様方には本堂内ではなく、境内にて法要にご参加いただいた。十一月の開山忌法要では、境内で法要にご参加いただいた檀家様方に、法要前、新型コロナウィルス感染症についてお話をした。コロナウィルスはインフルエンザ同様RNAウィルスであり、変異しやすいため、その変異型が感染力の強い方向に変異する可能性が高いことを指摘した。この「不安」は、残念ながら的中した。一方で人類は、ウィルス感染症の対策として、種痘以来、ワクチン接種で対抗してきた。ワクチンが完成して、ワクチン接種が始まれば、終息の方向に使うはずだ、という「希望」も話したが、現在着々とワクチン接種が始まっている。ただ、通常ワクチン開発には十年かかると言われているのを、わずか一、二年で市場に出すためには、有効性と副反応のチェック期間を削るしかない、という問題点も指摘したが、この「不安」だけは完全には払拭されていない。それを承知の上で、ドクターミネは六十五歳以上の高齢者枠で、ワクチン予約した。そして今年五月の当山大施餓鬼法要の法話では、「不安」「希望」という感情について話をした。この法話の内容は、一向寺ホームページに公開する予定である。

 コロナ自粛で寺坊にいる時間が増えたため、勉強の時間は確実に増えた。次男が生命科学の勉強をしていた事もあり、改めて遺伝子などの基礎医学の勉強を始めた。また今まで「積読」状態にあった書物も読み出した。かつて大学院生時代、実際の研究に役立つとも思えないようなシステム理論について、N教授からマンツーマンで習い、また電子軌道や量子論の初歩をI先生から習った。この時必死でまとめたノートは、もう必要ないだろうと思って、昨年実行した断捨離で全て処分した。それが今になって、もう一度勉強してみたくなった。

 ドクターミネが私淑(ししゅく)する医師に、岡部健(おかべたけし)先生がいる。本人にお会いした時、隣町の栃木県小山市出身だとおっしゃっていた。末期癌患者を在宅で看取るという、在宅緩和ケアのパイオニアである。その岡部先生自身が胃癌となり、母校の東北大学で手術を受けて療養中、あの東日本大震災に被災された。緩和ケアには、日本的死生観を心得た宗教者が必要である、との実感を、自らが臨床教授をしていた東北大学に、臨床宗教師養成講座という形にされた。臨床宗教師という言葉も先生自身の発案だときいている。その先生は、ご自身が築き上げた在宅ケアグループ「爽秋会(そうしゅうかい)」のメンバー、その一人でもある臨床宗教師第一期生の髙橋悦堂師、そしてご家族の方々に見守られながら、二〇一二年九月二十七日、六十二歳の生涯を閉じられた。そのわずか六日前に、先生自身が望まれた相手、カール・ベッカー氏との対談記録が同年の『文藝春秋』十二月号に掲載された。ベッカー氏が「ところで、身体の具合はいかがですか?」という質問に対して先生は

「順番に欲望が取っ払われていくんだな。まずは性欲がなくなって、それから物欲。さらに食欲が衰えて、最後まで残っていたのが知識欲。今は本読む力がないから、テレビで放送大学を見てるよ。」

と答えた先生に対してベッカー氏が「どんな講座を?」という問いかけに

「経済学。今俺が勉強してどうするんだと思いながら見てるよ。」

最後に残るのが知識欲だという先生のご遺言を、先生の享年を過ぎたドクターミネは、深く受け止めている。最後の最後まで残る知識欲は、案外、実務とかけ離れた領域の知識欲なのかも知れない。

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