2018年10月
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一向寺 年間予定表

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平成30年 一向寺 年間予定

1月2日ー1月6日 住職が檀家各家へ新年のご挨拶に伺います
 (地区外の檀家様は、お年賀を郵送します)
 3月18日—3月24日 春彼岸供養
  4月 8日   田代三喜まつり・お花まつり

 5月26日(第四土曜日) 大施餓鬼会法要
 7月13日—7月16日 東京、神奈川地区の盆供養
 (新盆供養のお宅には14日に住職が伺います。)

 8月13日—8月16日 盂蘭盆会供養(盆供養)
 (13日が仏様のお迎え、16日がお送りです。)
 (新盆供養のお宅には14日(市内)、15日(地区外)に住職が伺います。)

 8月22日(水曜日)新盆施餓鬼会法要(新盆の仏様のいる檀家様対象)
 9月20日—9月26日 秋彼岸供養
11月17日(金曜日) 開山忌法要
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駐車場のおしらせ

 一向寺の二大行事、大施餓鬼会法要と開山忌法要にお車でお越しの際には、一向寺西門から入って、本堂裏側の多目的広場に駐車してください。ただし、駐車可能な台数にも限りがありますので、できるだけ乗り合わせや公共の交通機関でお越しいただければ幸いです。

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年回法要(一向寺本堂内に故人のお名前が掲示してありますので、ご確認ください)


 1周忌:平成29年
 3回忌:平成28年
 7回忌:平成24年

 13回忌:平成18年
 17回忌:平成14年
 23回忌:平成 8年

 27回忌:平成 4年
 33回忌:昭和61年
 37回忌:昭和57年

 43回忌:昭和51年
 47回忌:昭和47年
 50回忌:昭和44年

2018年9月 3日 (月)

蓮池山無量院一向寺と田代三喜木像との関連

 なぜ一向寺に田代三喜木像が安置されるに至ったについては、二つの説があります。
一つの説は、田代三喜の墓がある永仙院が廃寺になるときに、そこに安置してあった田代三喜木像を、近くにあった一向寺に移して安置したというものです。
もう一つの説は、古河史跡保存会作成の『医聖 田代三喜翁略伝』が採用した説です。古河に高橋三貞という田代三喜の弟子筋の医者がいて、この方が田代三喜木像を所持していました。しかしその子孫の代になり、家業が衰え、結局この木像を、古河台町にあった下野屋という質屋に手放しました。
この質屋の一番奥の土蔵に大事に保管してあったのですが、主人である増田治兵衛に嫁入りし、まもなくその妻が奥の土蔵に入り、突然この木像をみて、驚いて、気絶したという珍事がおこりました。そこで増田治兵衛は、当時親交のあった一向寺第29世住職歓阿顕霊(かんあけんれい)和尚に話し、弘化2年(1845)ごろに一向寺に奉納したとのことでした。
実際の田代三喜像ですが、長さ2尺5寸(約75センチメートル)の座像で、服は赤色、金色で梅と菊の紋ちらしがあり、平ぐげの帯を締め、黒い十徳をつけ、あぐらをかいて、両手は膝におき、右指は小指だけ開いてあとは親指で三指をおさえ、左指は人差し指と小指を開いて、親指で二指をおさえた格好であったとのことです。小林正盛師によれば、「牙の像」と称する印とのことでした。
ところが、一向寺33世性譽満栄(桑門満栄)和尚代の明治34年2月8日の火災で一向寺が類焼した時に、田代三喜座像は焼失してしまいました。本堂は同年11月17日に再興されましたが、田代三喜座像は焼失したままでした。一向寺34世順阿孝亮(峯崎孝亮)和尚代の昭和8年4月15日に復刻発願され(彫刻師 川島政行)、昭和12年4月に開眼供養が行われ、現代に至っています。
文責:内科医師、一向寺第36世住職 向阿賢亮(峯崎賢亮)

田代三喜の医学史上果たした役割

 田代三喜は、名医のほまれが高く、それを伝える逸話も多いのですが、単に名医であったというだけであれば、木像まで作られて後世の人に像祀されることはなかったはずです。名医は一代限りであるため、その恩恵を受けた人たちが死に絶えれば、人の話題から消滅してしまいます。田代三喜の医学史の上での重要な働きは、以下の点であったと考えられます。
(1)当時中国で最先端の医学であった、李・朱医学を日本に伝えた。
(2)僧侶による医学教育から、現代にも通じる、医師が直接医学教育をするというシステムの先鞭(せんべん)をつけた。
(3)その結果、医療が宗教から分離された。

 南北朝から室町時代にかけての外科は、頻発する戦争により、特に兵士の傷の手当ての必要性から急速に発展しました。「金創医」とよばれましたが、多くは陣僧として従軍していた時宗の僧侶が技術を習得して、その役目を務めました。
 一方内科は、室町時代中期ごろまでは、宋(そう)代に著された安易な治療方針である「和剤局方」が専ら日本全国を支配し、単純な宋医学の模倣(もほう)というお粗末さでした。そんな時代に田代三喜は、当時の東洋医学の最高峰であった李・朱医学を日本にもたらしました。これは実証的医学の先駆けであり、三喜から医学を学んだ弟子は、曲直瀬道三、永田徳本をはじめ、数多く存在したため、後世派医学の開祖と呼ばれるようになりました。
 また医療の近代化の第一歩は、医学、医療が宗教から分離することです。田代三喜は、医と僧を分離するための先鞭をつけたということが最も重要な実績です。田代三喜以前の時代、医者になるためにまず、出家して僧となり、僧侶から医学を学び、医師として開業する際には還俗しました。これは日本に医学を伝えた鑑真和尚が僧医であり、奈良時代に完成した僧医制度が、その後も存続したためです。
おそらく室町時代においても主要な医学書は学問所を兼ねていた寺にしかなく、ひとかどの医者になろうと志したらまず、出家して僧となる必要があったのです。しかし、患者をほとんど診察したことのない僧侶が、医学書に書かれた内容を講義していたのでは、医学の進歩も、医療の進歩も望めません。ですからどうしても「まじない医療」が横行する結果となります。
 臨床経験の豊富な医師が、医学書に書かれたことのみならず、自らの医師としての経験を踏まえた内容を、医学生や研修医に教育するというスタイルは、現在ではどの国でも確立しています。実は日本においては、田代三喜と曲直瀬道三の師弟コンビが、まさに現代のこのスタイルを確立したのです。実証的医学とは、経験的事実の観察・実験によって積極的に証明していく医学のことですが、いくら李・朱医学が実証的であったとしても、臨床経験のない僧侶が、単なる知識の伝達として講義していたのでは、実証的な医療にはつながりません。
 現代にまで受け継がれた田代三喜の最大の功績は「医師が、医学生や研修医に対して医学教育をする」というスタイルの先鞭をつけたことです。江戸時代になれば、田代三喜がもたらした李・朱医学は過去のものとなり、明治以降はドイツ流の西洋医学、そして現代ではアメリカを中心とした西洋医学が基本となっていますが、実証的な医学を実践するための、その基礎となる医学が、時代とともに変化しただけのことなのです。
現代医療においても、田代三喜・曲直瀬道三の師弟コンビが確立した「医師が、医学生や研修医に対して医学教育をする」というスタイルによって、医学知識も、医療技術も、そして医師としての倫理も受け継がれています。

田代三喜翁略伝 2

 享禄4年(1531)三喜67歳のとき、当時25歳の青年、曲直瀬道三に出会いました。道三は京都より足利学校にきて儒学(じゅがく)を学んでいました。そこで三喜の活躍を耳にして、自分も医学を修めたいと志して三喜の門をたたきました。三喜はこの青年の才能に気づき、自分の後継者として教育しました。
 死期の近き病床にあっても口述をもって伝授したといいます。心電図モニターやその他の電気機器などなかった当時の医者にとって、死期が徐々に近づいていることを知り、死を正確に判定するというのは、今の医者が考えるよりもはるかに難しく、重要であったと考えられます。おそらく三喜は道三にたいして、人間の死にゆく姿を、自分の体を実例にして教えたのではないでしょうか。このとき道三は枕元で聞いたことを記録して本にしました。
師の深い恩情に感激して涙を流し、その涙がすずりに満ち、それで墨をすって記録したことから、この本を「涙墨紙(るいぼくし)」と名付けました。師に対する恩の深さは、名前にも表れています。曲直瀬道三は諱(いみな)を正盛、字を一渓といいますが、後に三喜の名である導道の道と、諱である三喜の三をとって道三と号するようになりました。
 田代三喜は天文13年(1544)甲辰4月15日三喜79歳の時に古河で亡くなり、足利氏開基である古河永仙院(ようせんいん)に葬られました。同院の過去帳には法名、三喜一宗居士と記されています(異説としては(『三喜備考』)、天文6年(1537)2月19日七十三歳、古河で死去とあります)。
 曲直瀬道三は後に京都に帰って還俗し、第13代将軍足利義輝の御典医となります。そして京都で「啓迪院(けいてきいん)」という医学校を設立して医学教育を行い、三喜より学んだ医学を体系化して多くの本を著し、後進の指導にあたったため、道三流医学が江戸時代初期の主流となりました。田代三喜の、医学教育者としての一面を引き継いだ弟子といえます。
 永田徳本もまた、田代三喜から李・朱医学を学びました。曲直瀬道三よりも6歳年下なので、道三同様、三喜の晩年の弟子と考えられます。どんな治療をしても十六文しか受け取らなかったから「十六文先生」と呼ばれ、第二代将軍、徳川秀忠を治療した時も多額の謝礼を断り、「十六文で結構です」といったという逸話が伝わっています。田代三喜の、市井の医聖として、関東一円を往来して庶民の医療に従事した一面を引き継いだ弟子といえるでしょう。
 なお、田代三喜の墓地には三喜松という古松がありましたが、枯れてしまったため、樅(もみ)の木を植えて墓印にしたと伝えられています。時代が下り永仙院が廃寺となったため、墓印もわからなくなりましたが、昭和9年9月、古河出身の真言宗豊山派大僧正小林正盛師と増田亀丸氏の発願により、永仙院跡地に供養碑が建てられました。

田代三喜翁略伝 1

田代三喜(1465ー1544)は、名が導道、諱(いみな)を三喜(三帰とも記す)、字(あざな)を祖範といいます。また、範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、善道など、多くの号を用いていたとも言われています。
 田代家が歴史に登場するのは、今から800年以上前の嘉永・文治年間で、伊豆に田代信綱という侍が屋島の合戦で源義経に従って戦い、戦功をたてました。信綱は医者を兼ねていたこともあり、子孫は代々医者となりました。その八世孫である兼綱は、関東管領家である扇谷上杉持朝に従い、武蔵国にはいりました。
 田代三喜は寛正6年(1465)4月8日、その兼綱を父に、武蔵国越生(おごせ)ないしは川越で生まれました。現在、埼玉県越生町には、田代三喜生地の石碑が建てられています。文明11年(1479)15歳のとき、臨済宗妙心寺派の某寺にて僧侶となりました。当時は僧侶にならなければ医者になれなかったからです。その後、関東第一の学校、下野の足利学校に入学して修学しました。
 しかし、日本での勉強にあきたらず、長享元年(1487)三喜23歳のとき、遣明使の船に便乗して明国にわたりました。当時の明国には、名医として名高い日本人医師、月湖(げっこ)が銭塘江(せんとうこう)の近くにいて、三喜はこの月湖について、当時最先端の医学であった、金の李東垣、(りとうえん)元の朱丹渓(しゅたんけい)の医学(略して李・朱医学)を学びました。そして、合計12年間明国に滞在して、明応7年(1498)三喜34歳のとき、月湖の著書『類証弁異(るいしょうべんい)全九集』や『大徳済陰方』その他の医学書をたずさえて日本に戻りました。
 三喜はまず、鎌倉の円覚寺内江春庵(こうしゅうあん)に居を構えましたが、まもなく、下野(しもつけ)国足利に移り住むようになりました。当時の鎌倉は、うち続く戦乱のために、町が荒廃していました。一方当時の足利は、関東の一大文芸の地であり、母校足利学校もあり、おそらく旧友知人がいて、住み易かったと思われます。
 この地での活躍、特に連歌師(れんがし)猪苗代兼栽(いなわしろけんさい)の中風の治療などの功績が、下総(しもうさ)国古河(現茨城県古河市)にいた、古河公方足利政氏(成氏の子)の目にとまり、永正6年(1509)三喜45歳のとき、古河公方の御典医(ごてんい)になりました。古河における三喜の医療は、まさに起死回生の功績が多大で、このころより「古河三喜」と呼ばれるようになりました。また三喜はこのころ還俗(げんぞく)(僧侶から俗の人に戻ること)して、妻帯したといわれています。
 古河公方足利政氏とその子高基は不仲であったため、古河の地を住み難いと感じた三喜は、数年して古河を去り、関東一円を往来して庶民の医療に従事しました。そして大永4年(1524)三喜60歳のとき、生まれ故郷である武蔵国に帰りました。それでも、古河や足利にでむいて医療に従事していました。医学者としての三喜の代表的著書としては、三帰廻翁医書(三喜十巻書)、当流和極集などがあります。

医聖 田代三喜翁木像と蓮池山無量院一向寺の関連

 本堂に向かって左の部屋に安置しております木像は医聖 田代三喜(たしろさんき)です。
田代三喜は室町時代末期の偉大な医師であり、医学教育者でした。特に、田代三喜とその直弟子である曲直瀬道三(まなせどうさん)(1507-1594)、永田徳本(ながたとくほん)(1513-1630)は、医聖と呼ばれています。
日本医学中興の祖ともいわれていますが、その功績は単に、当時としては最新の漢方医学を日本に導入したということばかりではありません。「医師が、医学生や研修医に対して医学教育をする」という、現代では万国共通のしくみを、愛弟子である曲直瀬道三とともに作り上げたことです。
これこそが「我が邦(くに)、名医多しといえども、像祀(ぞうし)せらるるは、古来ただ鑑真(がんじん)と田代三喜とあるのみ」(富士川游『日本医学史』)と、その功績が鑑真と並び称されてきた所以(ゆえん)です。
その功績を認めていた方が北里柴三郎博士であり、自らが会頭をつとめた第二回医学会総会(明治26年4月4日-10日)では、かつて日本の医療を支えてきた医師達の功績を忘れないようにと「医家先哲遺物陳列会」を開催しました。当時一向寺に安置していた田代三喜像も陳列され、多くの医家に感銘(かんめい)を与えました。

2018年3月14日 (水)

終末期医療について(4)

ドクターミネの毒舌健康法話
 前回は胃瘻(いろう)、人工呼吸器について説明しました。他人事としては、延命治療によって生かされている人をみると、自分はこんな状態になってまで生きていたくない、と感じるので、八割の人が延命治療を望まないと回答しています。しかし実際の場合、脳卒中や認知症で寝たきり状態になった本人は、意思表示できませんから、特に胃瘻を作るか否か、家族がその決断を迫られます。確かに胃瘻を作らなければ、月単位、年単位の寿命を縮める可能性があります。しかし胃瘻をつくっても麻痺(まひ)や認知症は改善しません。つまり寝たきりの状態で寿命だけが延びるということです。
 家族が悩み抜いた末に、胃瘻をつくらないという方針を固めたとしても、普段は病院に見舞いに来ないような親族がやってきて、無責任な正義感を振り回して「お前達はこいつを見殺しにするのか」といわれると、決断がにぶります。こういう無責任な正義感を振り回す輩(やから)にかぎって大変な介護を手伝うわけでもなく、口だけ出すのです。世の中には、自分が実際に手を汚す必要がなければ、大声で、無責任な正義感をふりかざす輩がいるのも現実です。アンパンマンの作者、やなせたかしさんの言葉を思い出します。
「正義とは何か。傷つくことなしには正義は行えない」
 一方胃瘻を造らないという決断は、自然死を自宅で迎えることを意味します。病院は本来治療をするべき場所ですから、ただ自然死を待つだけの患者を入院させておくことはできません。退院して、もし一日一本程度の点滴を望まれるのであれば、自宅で往診医に頼むことになります。第二回目でお話ししたように、二〇三〇年には三人に一人が六十五歳以上の高齢者となりますので、入院ベッドが圧倒的に不足します。ですから、特に今後は、自然死を望むということは「自宅での死」を念頭に置いたうえで、準備を進める必要があります。
 私達は、死ぬという体験ができません。私達に可能な死の体験は、いつも「死なれる」という体験だけです。死なれるという体験を通して、自らの死を考えるのです。しかも死に方を、選ぶことができません。末期癌で死ぬかもしれないし、脳卒中や認知症で寝たきりになって死ぬかもしれない。案外ポックリ死ぬかもしれない。
 ドクターミネの健康法話をお読みくださる方々は皆、今までずっと一所懸命(いっしょけんめい)に生き、そして自分の責任を果たしてこられたことでしょう。そして一所懸命に生きた先に、終末期がやってきます。ですから、どのような状態になろうとも生き切る。言い換えれば、その死に様を、死んでいく「ありのままの姿」を次の世代に見せるというのが、最後の最後に残された役目のように思います。後に残る次の世代の方々に、人はこうやって死んでいくものだという現実を見せることで、死を学ばせる。これが人生最後の仕事だと思います。脳卒中や認知症で家族に迷惑を掛けるかもしれない。癌による闘病生活で、家族に苦労をかけるかもしれない。でも、それが死ぬという現実です。
アンケートでは八割の人が延命治療を望まないと答えていますが、答えている人のほとんどは他人事です。実際に自分の連れ合いや親、時には子供がそういう状況になって、その選択を迫られたら、大変悩みながら決断することになりますです。死に方を選択できないのであれば、どのような死に方になろうとも、念仏を称えて受け入れる。念仏は、よりよい死を迎えるためのものではありませんが、結果として、どのような死に方になろうとも、念仏を称えてすべてを受け入れる。お迎えが来るまで、どんな事があろうともとにかく生き抜いて、その死んでいく姿を次の世代に見せる。これが私達のするべき最後の仕事だと心得ています。

終末期医療について(3)

ドクターミネの毒舌健康法話
 私達は一日約二二○○キロカロリー程度を食べています。最低限の生命維持には一四○○キロカロリー程度は必要です。よくご存知の点滴で補えるのは、一日中点滴をしても、せいぜい三〇〇キロカロリー程度です。一〇〇〇キロカロリー以上不足します。もし手術のために一時的に禁食となる患者には、頸静脈(けいじょうみゃく)や鎖骨下静脈(さこつかじょうみゃく)からカテーテルを心臓まで挿入(そうにゅう)して、心臓に直接高濃度の栄養をいれます(中心静脈栄養)。この方法の最大の問題点は感染です。高濃度の栄養をいれるカテーテルですから、どんなに消毒して留置しても永く留置すれば、そのカテーテルに沿って細菌が入り込んで、敗血症をおこします。ですから、留置できるのがせいぜい一ヶ月限度ですので、終末期医療には向きません。一方胃瘻(いろう)は、チューブがお腹の外に出ていますが、もともと消化管は菌と仲良く暮らしている臓器で、特に胃は塩酸が胃液として分泌(ぶんぴつ)されているため、胃液により菌はある程度死にします。その先の腸は、そもそも乳酸菌や大腸菌といった菌が生息していて、いわゆる陣地を造っていますから、外から菌が侵入してきても、それらを排除します。ですから、胃瘻を通じて細菌が混入しても、ほとんど問題が起こりません。
 ただ、衰弱(すいじゃく)して意識もない状態で、胃瘻や人工呼吸器につがれて、かろうじて生命を維持している姿をみると、これが人間の尊厳(そんげん)を維持した姿といえるのか、と感じられます。末期癌の場合、すべての臓器が衰弱していますので、胃瘻をつくって無理矢理栄養を押し込んでも、かえって患者を苦しめることになります。呼吸に関しても同じ事が言えます。ですから末期癌の多くの場合は、人工呼吸器も胃瘻も行いません。
 悩ましいのは、脳卒中や認知症の終末期の場合です。慢性期で寝たきりとなった終末期患者が、徐々に呼吸が弱くなれば、人工呼吸器をつけても余命延長は期待できないので、ご家族と相談して、人工呼吸器を装着しないという選択が可能です。しかし脳卒中急性期で実施された人工呼吸器の場合は、慢性期で自発呼吸が出てこなければ、人工呼吸器をはずすことができず、いやが上にもずっと呼吸器がついたままの状態になります。
 胃瘻の場合は異なった問題が生じます。そもそも口は、食べ物の道(食道)と呼吸の道(気道)と共通です。のど(喉頭(こうとう))で気道、食道に分かれます。飲み込む場合、食物や飲み物が気道に入らないように、まず気道にふたをして呼吸を止めます。食物がすべて食道に入った後、気道のふたを開けて呼吸を再開します。それがもし、脳血管障害などでこのシステムに不具合が生じると、食物や水が食道に送れないばかりか、気道に入る事もあります。食物や飲み物が少しでも肺に入ると、重篤(じゅうとく)な肺炎をおこし(嚥下性肺炎(えんげせいはいえん))死にいたります。ですから医師は胃瘻を勧めるのです。嘔吐(おうと)による誤嚥(ごえん)や、一日約二リットル出るだ液の誤嚥は防げませんが、胃瘻を作ると、その後年単位で寿命が維持されることもまれではありません。
 他人事として人工呼吸器や胃瘻の患者をみると、こんな状態になってまで生きていたくないと感じて、七割以上の人が胃瘻等を望まないと回答します。しかし実際に脳卒中で寝たきりになった場合、自分では意思表示できませんから、胃瘻を作るか否か、家族がその決断を迫られます。胃瘻をつくっても、麻痺(まひ)や認知症はよくなりません。ただ寝たきりの状態で寿命だけが延びるのです。「延命措置としての胃瘻や人工呼吸器装着を拒否する」という本人からの、遺言書のような法的効力のある文書でもないかぎり、家族は迷いながら決断するのです。

終末期医療について(2)

ドクターミネの毒舌健康法話
 通常の医療と終末期医療との決定的な差は、ゴールの違いです。通常の医療は治癒(ちゆ)(完全に治ること)軽快(よくなること)がゴールです。そのゴールに向かって治療しますので、医師と看護師が中心となります。しかし終末期医療の場合、ゴールは「死」です。治癒、軽快が、すでに望めないからこその終末期医療です。ですから、よりよい「死」を迎えていただくために、あらゆる職種の方と、そして家族が一丸となってお世話します。最近では臨床宗教師により、宗教的な領域に対するケアも行われるようになってきました。
 一方同じ終末期医療でも、末期癌(がん)の終末期と、脳卒中や認知症で寝たきりとなった終末期では、一番異なる点はゴールが予想できるか否かです。末期癌の場合、元々の癌の悪性度、進行度、採血データなどから、余命が三ヶ月、半年と、ある程度予想できます。しかも末期癌といっても、本当に介護が必要となるのは最後の一、二ヶ月です。ですから、患者と家族が自宅での最期を希望する場合、介護保険も適応になりますので、訪問看護師や在宅ガン専門医に協力してもらい、その一、二ヶ月間を全力投球すればいいのです。緩和(かんわ)ケア病棟(末期癌患者の入院する病棟)に入院するにしても、入院期間はせいぜい一ヶ月程度です。現在では、申請すれば介護休暇が得られます。その期間中は給与が一部カットされますが、最大で三ヶ月休むことが可能ですので、この制度を充分に活用できます。
 しかし、脳卒中や認知症で寝たきりとなった終末期患者の場合、この予想がたちません。合併症により一ヶ月で死亡するかもしれないし、十年寝たきりという方もいます。いつまでがんばればいいのか予想ができないまま、がんばり続けることを要求されます。先が見えぬまま介護し、あっという間に介護休暇期間を使い果たしてしまい、場合によっては家族の誰か、退職せざるを得なくなります。決してきれい事ではすまない現実です。
 皆様方は「二○三○年問題」をご存じでしょうか?二○三○年になると、三人に一人が六十五歳以上になります。六十五歳以上になれば、入院が必要な病気になる人の割合が増加します。しかも近年、九割の方は病院で死にますので、当然ですが入院ベッドが圧倒的に不足する事態になります。医療財政の面を考えても、所得税を納める年代が今後、全体の三分の一になりますので、その財源をどうするのかという大問題が生じます。選挙前になると、その場限りの、口先だけの「減税」を公約する候補者が見受けられますが、目の前に迫った「二○三○年問題」は、決してさけては通れないことを認識しておく必要があります。
 平成二十五年の読売新聞にアンケート調査によると、終末期において、延命治療(えんめいちりょう)を望まないと回答した人が八割でした。胃瘻(いろう)、人工呼吸器に関しては、七割以上の人が終末期においては望まないと回答しました。人工呼吸器は通常、急性期や急変時に使用されるもので、心臓は動いているが、呼吸が停止した、ないしは弱くなってきた場合に用います。胃瘻は、水や食べ物がうまく飲み込めない患者に挿入(そうにゅう)します。お腹に穴を開けて、胃に直接バルーンチューブをいれて留置し、このチューブから栄養や水、薬などを入れます。かつては鼻から胃まで管を入れて、そこから水や栄養を入れていました。しかしそもそも、のみ込みができない患者に入れるので、挿入自体が困難で、しかもチューブの定期交換のたびに患者に苦痛を与えなければなりませんでした。それに対して胃瘻は、太いチューブを挿入できるし、交換も比較的容易であり、苦痛もありません。しかも不要になれば、ただ抜去するだけ(自然に穴が閉じる)ですので、近年多用されるようになりました。

終末期医療について(1)

ドクターミネの毒舌健康法話
 昨今「終活(しゅうかつ)」という言葉をよく耳にします。終活とは、ぎりぎりの終末期(死が目前にせまっている時期)では、お墓や遺産相続の問題などの、社会的な問題を解決することなどできませんから、前もって問題を解決しておく、という活動のことです。もし自分が不治の病になった時にどうしてほしいか、といった希望もあれば、それを正式に伝えることも含まれます。要はお迎えが来たら、胸を張って威風堂々(いふうどうどう)とこの世を去っていくための準備です。
 終活に関する社会的問題について語るほどの知識はありませんから、ドクターミネは、自分が不治の病になった時にどうしてほしいか、という希望のある方々のために、終末期医療に関して4回に分けてお話しいたします。
 ドクターミネは丙申の生まれですので、還暦を過ぎました。ですから終末期医療の問題は、決して他人事ではありません。皆さんは、できれば苦しまずにポックリ死にたいと思っていませんか?正直に申し上げます。私も同じです。口には出しませんがね。
 こんな話を耳にしたことがあります。少し前に「ポックリ観音」なるものがブームになりました。家族に苦労かけながら、自分も苦しみながら死ぬのはいやだ、できるならばポックリ死にたい、という希望をかなえてくれる観音様を、あるお寺で建立したら、大勢の参拝客が集まるようになった。そこである旅行社が、ポックリ死にたいという高齢者を集めて、ポックリ観音参拝ツアーを企画したら、びっくりする程の客が集まったそうです。無事に参拝して、帰る途中、参拝客の一人がバスの中で突然意識を消失しました。
旅行社はあわてて病院に運びましたが、結局帰らぬ人になりました。これって、ほとんど苦しまずにあっという間に死んだのですから、いわゆるポックリ往生ですよね。この観音様はまさに「霊験(れいげん)あらたか」ということです。ところがこのツアーは、翌年から誰も応募しなくなったそうです。ドクターミネは大田南畝(おおたなんぽ)の狂歌を思い出しました。
「いままでは 人の事だと思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」
 高齢の患者さんからはしばしば、家族に迷惑をかけたくないからポックリ死にたい、という言葉をよく聞きます。しかし実際にポックリ死なれると、後に残された家族は大迷惑です。病院で死のうが、自宅で死のうが、医者の管理下で死ぬ場合は、死因がわかっていますのですぐに死亡診断書が出ます。
しかし死因のわからないポックリ往生の場合、警察医が呼ばれ、まず事件性の有無を調べます。そして最近ではAIと呼ばれる、死因判定のためのCT検査が行われます。ここで死因が判定されれば、警察医による死体検案書が出ますが、もし事件性が少しでもある場合、ないしは死因が判定できない場合は、司法解剖となります。
司法解剖は、裁判所からの執行命令が必要になります。執行命令が下りると、司法解剖のできる施設に送られ、司法解剖の結果に基づいて死体検案書が作成されます。その間約1週間かかります。そして待ったなしの一連の弔い事と遺産相続。どこに何がしまってあるのかわからず慌てふためき、追われるように通夜、葬儀、そして七七日法要と納骨。実際に母親にポックリ死なれた先輩は、こう言っていました。
「お袋が死んで、もうだいぶたつのに、お袋の亡くなる前日の顔と、こたつで死んでいたあの日の姿を、今でも時々思い出すんだ。卒中で十年間寝たきりで死んだ親父の姿は、まったく思い出さないのに。」
 確かに病気になって入退院を繰り返して死んでいけば、家族には大いに負担になる。でもそうやって徐々に弱りながら、遂に最期の時を迎えるという死に方の方が、後に残る家族は死を受け入れやすいのかもしれません。

平成30年 一向寺通信です。

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