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2010年9月 8日 (水)

田代三喜翁略伝

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 田代三喜(1465ー1544)の名は導道、諱を三喜(三帰とも記す)、字を祖範といいます。範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、善道の多くの号もあります。

 田代家が歴史に登場するのは、今から820年前の嘉永・文治年間で、伊豆に田代信綱という侍が屋島の合戦で源義経に従って戦い、戦功をたてました。

信綱は医者を兼ねていたこともあり、子孫は代々医者となりました。その八世孫である兼綱は、関東管領家である扇谷上杉持朝に従い、武蔵国にはいりました。

 田代三喜は寛正6年(1465)4月8日、その兼綱を父に、武蔵国入間郡越生(おごせ)ないしは川越で生まれました。現在、埼玉県越生町には、田代三喜生地の石碑が建てられています。

 文明11年(1469)15歳のとき、臨済宗妙心寺派の某寺にて僧侶となりました。当時は僧侶にならなければ医者になれなかったからです。その後、関東第一の学校、下野の足利学校に入学しました。そこで第五世宰主東井之好和尚について医学を修学しました。

 しかし、日本での勉強にあきたらず、長享元年(1487)三喜23歳のとき、遣明使の船に便乗して明国にわたりました。当時の明国には、名医として名高い日本人医師、月湖が銭塘いて、三喜はこの月湖について医学の研鑽を積みました。

そして、合計13年間明国に滞在して、当時最先端の医学であった、金の李東垣、元の朱丹渓の医学(略して李・朱医学)を学びました。明応7年(1498)三喜34歳のとき、月湖の著書「全九集」や「済陰方」その他の医学書を携えて日本に戻りました。

 三喜はまず、鎌倉の円覚寺内に江春庵に居を構えましたが、まもなく、下野国足利に移り住むようになりました。当時の鎌倉は、将軍足利義教と関東公方足利持氏の戦い(永享の乱)、持氏の遺児成氏と上杉管領家との戦い(享徳の乱)の舞台となったため、荒廃していました。

一方、当時の足利は、関東の一大文芸の地であり、また母校足利学校もあり、おそらく旧友知人がいて、住み易かったと思われます。

 この地での活躍、特に連歌師猪苗代兼栽の中風の治療などの功績が、下総国古河(茨城県古河市)にいた、古河公方足利政氏(成氏の子)の目にとまり、永正6年(1509)三喜45歳のとき、古河公方の御典医に召されました。

 古河における三喜の医療は、まさに起死回生の功績が多大で、このころより「古河三喜」と呼ばれるようになりました。また三喜はこのころ還俗(僧侶からふつうの人に戻ること)して、妻帯したとのことです。

 古河公方足利政氏とその子高基は不仲であったため、古河の地を住み難いと感じた三喜は、数年して古河を去り、関東一円を往来して庶民の医療に従事しました。そして大永4年(1524)三喜60歳のとき、生まれ故郷である武蔵国に帰りました。

それでも時々、古河や足利にでむいて医療に従事していました。医学者としての三喜の代表的著書としては、三帰廻翁医書(三喜十巻書)、当流和極集、捷術大成印可集などがあります。

 享禄4年(1531)三喜67歳のとき、当時25歳の青年、曲直瀬道三に出会いました。道三は京都より足利学校にきて儒学を学んだ、三喜の足利学校の後輩でもありました。

三喜の活躍を耳にして、自分も医学を修めたいと志して三喜の門をたたきました。三喜はこの青年の才能に気づき、自分の後継者として蘊蓄を傾けて育成しました。

 死期の近き病床にあっても口述をもって伝授したといいます。心電図モニターやその他の電気機器などなかった当時の医者にとって、死期が徐々に近づいていることを知り、死を正確に判定するというのは、今の医者が考えるよりもはるかに難しく重要であったと考えられます。

おそらく三喜は道三にたいして、人間の死にゆく姿を、自分の体を実例にして教えたのではないでしょうか。このとき道三は枕元で拝聴して、それを記録して本にしました。師の深い恩情に感激して涙を流し、その涙が硯に満ち、それで墨をすって記録したことから、この本を「涙墨紙」と名付けました。このとき感激は名前にも表れています。

曲直瀬道三は初め一渓と名乗っていましたが、後に三喜の名である導道のうちの道と、いみなである三喜の三をとって道三としました。

 田代三喜は天文13年(1544)甲辰4月15日三喜79歳、足利氏開基である古河永仙院墓地に葬られました。同院の過去帳には、三喜一宗居士と記されています(ただし異説として「三喜備考」という本では、天文6年(1537)2月19日七十三歳、古河で死去とも伝えています)。

 曲直瀬道三は後に京都に帰って還俗し、第13代将軍足利義輝の御典医となります。そして京都で「啓迪院(けいてきいん)」と称する医学校を設立して医学教育を行い、三喜より学んだ医学を体系化して多くの本を著し、後進の指導にあたったため、道三流医学が江戸時代初期の主流となりました。

田代三喜の、医学者と医学教育者としての一面を引き継いだ弟子といえます。

 永田徳本もまた、田代三喜から李・朱医学を学びました。曲直瀬道三よりも6歳年下なので、道三同様、三喜の晩年の弟子と考えられます。どんな治療をしても16文しか受け取らなかったから「十六文先生」と呼ばれ、第二代将軍、徳川秀忠を治療した時も多額の謝礼を断り、「十六文で結構です」といったという逸話が伝わっています。

田代三喜の、市井の医聖として、関東一円を往来して庶民の医療に従事した一面を引き継いだ弟子といえるで
しょう。

 なお、田代三喜の墓地には三喜松という古松がありましたが、枯れてしまったため、樅(モミ)の木を植えて墓印にしたと伝えられています。

時代が下り永仙院が廃寺となったため、墓印もわからなくなりましたが、昭和9年9月、古河出身の真言宗豊山派大僧正小林正盛師と増田亀丸氏の発願により、永仙院跡地に供養碑が建てられました。(続く)


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