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2010年9月 9日 (木)

田代三喜の医学史上果たした役割

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 田代三喜は、名医の誉れが高く、それを伝える逸話も多いのですが、単に名医であったというだけであれば、木像まで作られて後世の人に像祀されることはなかったはずです。なぜなら、名医は一代限りであるため、その恩恵を受けた人たちが死に絶えれば、人の話題から消滅してしまうからです。

田代三喜の医学史の上での重要な働きは、以下の点であったと考えられます。


(1)当時中国で最先端の医学であった、李・朱医学を日本に伝えた。

(2)自ら医学教育を行ない、後世に名を残すような弟子を育てた。

(3)その結果、医と僧の分離のための先鞭をつけた。


 南北朝から室町時代にかけての外科は、頻発する戦争により、特に兵士の傷の手当ての必要性から急速に発展しました。「金創医」とよばれましたが、多くは陣僧として従軍していた時宗の僧侶が技術を習得して、その役目を務めました。

 一方内科は、室町時代中期ごろまでは、宋代に著された安易な治療方針である「和剤局方」が専ら日本全国を支配し、単純な宋医学の模倣という御粗末さでした。そんな時代に田代三喜は、李・朱医学を伝えたのです。

当時の東洋医学の最高峰であった李・朱医学は、実証的医学の先駆けであり、これが日本で初めての医学の流派、三喜流となりました。この三喜流を学んだ弟子は、曲直瀬道三、永田徳本をはじめ、数多く存在したため、後世派医学の開祖と呼ばれるようになりました。

 また、医僧分離の為の先鞭をつけたということも重要な実績です。田代三喜の時代は、医者になるためにまず、出家して僧となり、医師として独り立ちできるようになると還俗しました。曲直瀬道三も永田徳本もまた、まったく同じコースを歩んで医師となりました。

これは日本に医学を伝えた鑑真和尚が僧医であり、奈良時代に完成した僧医制度が、その後も存続した為です。おそらく室町時代においても主要な医学書は学問所を兼ねていた寺にしかなく、ひとかどの医者になろうと志したらまず、出家して僧となる必要があったのです。僧が医者を兼ねれば、どうしても宗教色が強くなります。

 もしむずかしい病気や病態に出くわしたと考えてみましょう。現代の医者であれば、まず先輩・同僚の医師に相談し、そして文献に当たり、その患者に合致する病態や病気を探し、治療法を検討します。必ずしも明快な回答を得られる訳ではなく、悩むものです。

もし僧が医者を兼ねていたら、薬師如来のような現世利益のある仏様のお力におすがりするために、護摩をたいて、一心に祈るという行動に出ても不思議ではないのです。

つまり僧と医が分離しない限り、いくら実証的医学の側面を持つ、李・朱医学が日本に伝えられても定着しません。実はどの国においても、医が宗教から分離することが、医の近代化にとって大変重要なことなのです。

 僧籍を離れた医師田代三喜が、最新知識を記した医学書を個人的に保有していて、それを用いて弟子達に医学教育をしていくことで、医と僧を分離させる先鞭をつけたのです。

しかも、三喜の志を継いだ愛弟子の曲直瀬道三が、同じように還俗して、京都で「啓迪院(けいてきいん)」と称する医学校を設立して医学教育を行うようになると、より一層、僧と医の分離が進みました。田代三喜は、医の近代化の第一歩を押し進めた人といえます。(続く)


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