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2010年10月 1日 (金)

『汝スプーン(匙)となるなかれ①』Dr.Mineの仏教法話 

 第一回目の仏教法話は、法句経(ほっくきょう)の一節です。次のような言葉があります。


「たとえ生命(いのち)のかぎり
師にかしずくとも
心なきひとは
正法(まこと)を知らざるべし
げに
匙(さじ)は器につけども
汁味(あじ=スープのあじのこと)を知ることなきがごとし」(法句経64)


「たとえ瞬時(またたき)の間(ま)
師にかしずくとも
心あるひとは
たちまちにして
正法(まこと)を知らん
げに舌こそ
美味(あじ)を知るがごとし」(法句経65)

 法句経は、釈尊(しゃくそん)が平素口にされていた、いわゆる人生訓を、釈尊滅後あまり遠からぬ時期に、弟子達によって編集されたものだといわれています。原典はパーリ語でかかれていますが、これを友松圓諦(ともまつえんたい)師が邦語訳し、戦後、法句経講義としてラジオ放送されたのをきっかけに人々に知られるようになりました。


 法句経64のいわんとするところは、どれだけすばらしい師に従って一生学んだとしても、「近くにいるから、いつでも師の教えは聞ける」と高を括っていると、何も正法を得る事ができずに終わってしまいますよ、それはあたかもスープとスプーン(匙)の関係のようなもので、スプーンは常にスープの器のすぐ近くにあっても、そのスープの味を味わうことはできないでしょう、という意味です。


一方、法句経65のいわんとするところは、一期一会(いちごいちえ)の覚悟で教えを聞けば、たとえ師に従うのが瞬時の間であっても、正法を得ることができますよ、それはあたかも舌とスープの関係のようなもので、舌がスープに近づくのは一瞬ですが、しかしその舌がスープの味を知るでしょう、という意味です。

すぐ近くにいる時にはその有り難さを感じることができず、逆に離れるとその有り難さを知るという経験、皆様方にはありませんか?それが題名にも示したように、スプーンになるということなのです。(続く)

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