『汝スプーン(匙)となるなかれ④』Dr.Mineの仏教法話
私もまた忙しい、忙しいで日々を暮らしてきました。
人の命を預かる医者をやっているのだから当たり前だ、子育てには金が必要だし、それを稼いでいるのだから、少々の事は我慢しろ、という感じでした。
妻に感謝の念がなかった訳ではないし、妻にその事をいわれれば、感謝しているよ、当たり前だろう、といいました。それでもやっぱり、いつもそばにいるからこそ、その有り難さに気づかずに、自分の事ばかりになっていたように思うのです。
妻子の為に働いているという自負は、裏を返せば、それ以外のことは私の為にやってくれて当たり前、という意識が働いていました。「妻には苦労をかけっぱなしだったのに、私はもう、妻を温泉にすら連れていってやれないのです」という患者の言葉が、私の耳から離れませんでした。私は間違いなく、妻に対してスプーンになっていました。
では何故、相手に死なれたり別れたりした時に、ようやくその有り難さを思い出すのでしょうか。
それは「人の存在は、他者から与えられる」という人間の特性があるからです。これを関係存在といいます。人間は、他者の他者としての自分を無意識のうちに感じることで、自らの存在を確認しているのです。
例えば、教師は生徒という他者がいるから、自らが教師であるという存在を確認できるのです。医師は患者という他者がいるから、自らが医師であるという存在を確認できるのです。
私は妻子がおりますが、妻や子供の前では無意識のうちに、夫としての自分、父親としての自分を確認しているのです。もし妻に死に別れると、夫としての自分の存在を確認できなくなります。夫としての自分の存在を失ったと感じた時に初めて、自分に存在を与えてくれた相手である妻が、あれこれしてくれた事を思い出すのです。
今まで当たり前だと感じていた事にようやく目が向きます。そして、相手がいかに大切な存在であったかを認識し、自分が相手に対して何もしてやれなかったという嘆きを生じるのです。
しかし重要なことは、親子の縁、夫婦の縁など、人と人との縁というものは、相手が仏になっても決して切れないという事です。
切れてたまるものですか。何かをきっかけにして思い出す事でしょう。あの時は幸せだったなとか、あの時二人でがんばったなあ、とか。
でも甦るのは決して楽しかった事ばかりではありません。あの時はどうしてあんな事を言って傷つけてしまったのだろう、といった後悔の時も甦ります。
私たちという存在の中には、そういう甦る「時」が無数にあるのです。私たちだけではありません。仏様の方にも、私たちとともに過ごした無数の「時」があるのです。
だから私たちが、仏様を思い出して念仏を称えると、その思いを共有する事ができるのです。あなた、あの時は幸せでしたね、と思ったら、その思いが仏様にも伝わります。親父、あの時は本当にすまなかったな、と思ったら、その思いが仏様に伝わるのです。
南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)を称えるという事は、その瞬間だけですが、私たちが阿弥陀仏と一体化して南無阿弥陀仏という仏になるという事です。これを機法一体(きほういったい)といいます。
その阿弥陀仏の周囲には、私たちに縁のある大勢の仏様方がいらっしゃって、いつも私たちを見守っていてくださいます。だから私たちが、それぞれ大切に思う仏様方を思い出して南無阿弥陀仏を称えますと、その思いは必ず仏様に伝わるのです。
相手が仏様になっても、そのご縁が決して消滅しないということは、そういう事です。(終わり)
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