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2012年1月

2012年1月17日 (火)

『日本人として生きる』⑤  Dr.Mineの仏教法話

 する中で、何度も死を経験してきたはずなのに、その時の記憶が残っていないので、死は正直怖い。しかし死する時は必ずやってくる。是非に及ばず、その死を受け入れて、この世を出て行かなければなりません。

どうせ出て行かなければならないのであれば、先に逝った先輩達やご先祖様が待つ浄土(天国)に続く白い一本道を、後ろを振り返ることなく、胸を張って、威風堂々と歩いて出ていきたい。有り難いことに、私はの仏法に出逢う事ができました。歴史的にも多くの日本人が昔から、念仏を称えて死んでいきました。

私もまた、日本人として死を受け入れて死するために、毎日南無阿弥陀仏を称え、そして皆様方にも念仏をお勧めしているのです。

 死する瞬間はどうなるのか。これも記憶にないからわからない。仏典には、その瞬間には錯乱し、失念するような状況がおこり、それが輪廻転生の最後の一押しになるとあります。

これを仏教用語では「の」といいます。それだって、嘘か誠か確認しようがない。この問題に関して上人はの一節を引いて、心配するな、念仏者であれば、心が錯乱し失念する前に、阿弥陀仏やその他大勢の仏様、つまり私達一人一人とご縁のある仏様がお迎えにきてくださるから安心して出て行けるのだとおっしゃっています。

よくおばあさんが、仏壇の前に坐って合掌して、「じいちゃん、さびしいからって、あんまり早く私を迎えにきたらやだかんね」といっていますよね。

これが日本人の伝統的死生観である「お迎え」です。仏教用語としてはといいます。これは昔から日本人の死生観の根本にあります。つまり、「俺が先に逝ったら、お前の臨終の時には必ず迎えにいくから、もしお前が先に逝ったら、必ず俺を迎えにきてくれよ」というものです。

日本人として死んでいくという事は、そういう死生観を受け入れるということだと、私は思うのです。

 そして日本人の仏になるということは、どういうことなのでしょうか。後に残った人が嘆き悲しんでいたら、すぐそばにいって、その嘆きを聞いてじっと見守り続ける。そしてその人の臨終に際しては、阿弥陀如来と一緒に、お迎えに行く。

お盆、彼岸の時には、あの世とこの世を行ったり来たりする、という事です。しかしいつまでも、施主となる子孫が続くとは限りません。しかし心配はいりません。施主となる子孫が途絶えても、例えば一向寺の檀家様であれば、一向寺が続く限り、一向寺歴代住職と一向寺の檀家様方がご供養し続けてくれます。

 日本人の仏になるということは、すべての日本人のための仏として、そしてご先祖様の一員として、後に残った者達を見守り続けるということなのだと、私は信じています。

『日本人として生きる』④  Dr.Mineの仏教法話

しかも国債という名の赤字が、現在まで相当額累積しています。今回の震災や台風被害で、さらなる借金も必要になることでしょう。それらのつけも、我ら日本人の子孫に残していくことになります。これからどうしたらよいのか、正直よくわかりません。しかし、そういう問題を避けて通ることができないのが、日本人に生まれ、日本人として生きるということなのです。

 そして、生の延長線上に死があります。それが表題に示した、日本人として死ぬということです。


 時宗宗祖上人の言葉に
  の作法が臨終に必ず現起するなり

とあります。要するに、今まで生きてきたことが臨終に必ず現れるという意味です。また病院の臨床の場で、昔から言い継がれてきた言葉があります。

  人間は生きてきたように死んでいく

死だけが特別な形でやってくるわけではありません。几帳面に生きてきた人は、几帳面に死んでいきます。ずぼらなに生きてきた人はずぼらに死んでいきます。病死であっても、事故死であっても、また自殺であっても、その最後の迎え方によらず、生きてきたように死んでいきます。


 私が尊敬する先輩医師のお父様のお話しです。彼は若い頃、労働組合の委員長として活躍されたそうです。組合活動のために、家族をだいぶ犠牲にしたとのことでした。その父親が年老いて、認知症になりました。最後を看取ったその先輩医師が、しみじみこうおっしゃいました。

「親父は卑しくぼけなくてよかった。しょっちゅう、困っている同僚や部下を必死でかばった委員長時代の自分に戻っていた。気高くぼけた親父をみて、わだかまりが消えてむしろ尊敬の念すら覚えた。」

 病気で死ぬのか、災害で死ぬのか、場合によっては自殺で死ぬかもしれない。病気で死ぬにしても、ぽっくりくのか、寝たきりになったり、ぼけたりして死ぬのか。いずれにしても私達は、死に方は選ぶことができません。しかし、どんなにじたばたしようとも、生きてきたように死んでいくのです。

 私は、日本人に生まれ、日本人として生きてきたのですから、日本人として死を受け入れて、日本人として死んでいこうと思っています。多くの日本人は、なんとなくにしても、死ねば仏になると思っている。しかも昔から多くの日本人は、死んだら、ご先祖様や先にった友人達が待っている、浄土とか天国という名の場所にいくと思っています。正直、絶対的な自信があるわけではありませんが、私もそう信じています。この死生観は、仏教が入ってくる以前から、日本人の中にあったものだといわれています。

『日本人として生きる』③  Dr.Mineの仏教法話

 ある訪問看護専門の看護師さんの話です。自分が担当している集団の中にまったく動けない患者さんがいました。そのため地震直後に心配して駆けつけて、二階に避難させている最中に津波に襲われました。患者さんとその家族は無事でしたが、助けにいった看護師は亡くなりました。自らが職務で担当している集団を守るために、殉職しました。

 私達は色々な集団に属しています。職業集団、市民とか県民という名の集団、そしてなによりも、日本人という集団。集団は集団独特の感情や理屈、または誇りまでも持っている。そして集団全体に危機が訪れると、本能的に命をかけてでも守ろうとする。これはなにも日本人だけの特殊性ではありません。

たとえば9.11事件がニューヨークで発生したとき、倒壊寸前のビルに、何人もの消防士が人命救助のために飛び込んでいき、消防士自身が命を落としています。ニューヨーク市民、アメリカ国民という集団の危機に対して、それを守るために多くの消防士や警察官が命を捧げたのです。

 その、本能ともいうべき人間の感性を、かつて日本では国家が利用しました。日本という国家、日本人という集団を守るため、しいてはアジア民族という集団全体を守るためだと宣伝して、魂を揺さぶり、若者を戦場に駆り立てました。そのため当時の多くの若者達は、自ら志願して命を捧げました。

まさか戦後、靖国神社参拝問題が起こるなど予想もせずに、靖国神社で再会すると約束しあって、死地に赴きました。これはもしかすると、教育やプロパガンダだけの影響ではないように思うのです。

 集団に属しているということは結局、その集団が巡り会う運命に、否応なく従わなければなりません。その一番典型的な例が、このたびの福島原発事故です。大量の放射性物質が飛散しました。放射性セシウムによる被爆は、ゆゆしき問題です。

もし私が外国人であれば、自国に帰国すれば問題解決です。しかし東日本で生活する私にとっては、逃げる事ができません。東日本で生活する集団に属するということは、この現実を受け入れなければなりません。どれほど国家の原発行政を非難しようとも、東京電力の対応を責めようとも、まずは現実を現実として受け止め、それでこれからどうするのかを考え、議論していかなければなりません。


 電気の問題は、もちろん一人一人の節電は大変重要です。しかし日本という国は技術立国であり、大量の工業製品を輸出しているので、電気の安定供給は絶対不可欠です。しかし我が国には石油資源もなく、天然ガスも出ませんから、火力発電にのみ依存すれば、産油国の思惑に振り回されることになります。

加えて炭酸ガス排出による地球温暖化の問題も無視できません。かといって今更、ダムを増やして効率の悪い水力発電という訳にもいきません。原子力発電以外の方法で、本当に需要をまかなうことができるのでしょうか。

しかしその原子力発電の場合、ひとたび事故が起こると大変な被害が生じるという問題の他に、核廃棄物の問題があります。核廃棄物であるプルトニュームが、世界中で年間8千トンもでき続けています。現在までの累積で二十数万トンにも及ぶという現実があり、それが年々増加の一途をたどっています。

プルトニュームの半減期は2万年といわれていますので、ほぼ永久的に放射能を出し続けます。日本では、青森の五所川原村の地中にとりあえず埋めていますが、それだって限界があるでしょう。原発を利用し続けるということは、この核廃棄物を、我らの子孫に大量に残していくということです。


 

『日本人として生きる』②  Dr.Mineの仏教法話

 焼け木杭に火が付いたというのでしょうかね。50歳の時、これ以上最前線で働くのは無理だと自覚して退職したはずなのに、魂が揺さぶられて、若い頃の自分が甦ってしまった。しかし結局は、そういう医者は用無しであるという現実を突きつけられました。

 どうして魂が揺さぶられたのでしょうか。それは結局私が、東日本で生まれ育った日本人だからだと思います。普段はそんなことなど意識していません。しかし今回のような大震災に遭遇すると、自分が日本人という集団に、特に東日本に生まれ育ったという集団に属しているという現実に意識が向くのです。

 人間は猿から進化しました。猿は群れで共同生活することにより、外敵から身を守ってきました。肉食獣に襲われてどうしても逃げ切れなくなった時には、群れの中の一匹が犠牲になって、群れの全体を守ってきました。私達の中に猿から進化したなごりが、どの程度あるのかはわかりませんが、人間にも、自分が属している群れ、集団が窮地に陥ると、魂が揺さぶられて命がけでその群れを守ろうとする本能がはたらくのではないでしょうか。それが職業に関連すると、顕著に現れるように思います。

 宮城県南三陸町に、遠藤未希さんという女性がいらっしゃいました。彼女は南三陸町の危機管理課に所属しており、あの日、3階建ての防災対策庁舎の2階で、地震発生直後から
「6メートルの津波がきます。避難してください。」
と住民に呼びかけ続け、多くの住民はその放送を聞いて避難しました。

しかし彼女自身は津波にのみ込まれて、わずか24年の人生を閉じてしまいました。ご両親や旦那様にしてみれば正直、たとえ卑怯者のそしりを受けてもいいから、職場を放棄して、逃げて欲しかった、生きていて欲しかったと思ったのではないでしょうか。しかし彼女は、南三陸町という集団の中にあって、その集団を守るために踏みとどまり、職務を全うして殉職しました。


 6月19日の読売新聞によれば、岩手、宮城、福島の3県の非常勤消防団員8万人のうち、岩手116人、宮城106人、福島27人の合計249人が、自治体の消防士は3県合計で27人、警察官は30人が、このたびの東日本大震災で殉職しました。彼らもまた、それぞれが住む地域の集団を命がけで守りました。

『日本人として生きる』①  Dr.Mineの仏教法話

日本人に生まれ、日本人として生き、日本人として死に、そして日本人の仏になるということ

 平成23年3月11日14時46分、東日本は大地震に見舞われ、死者、行方不明者あわせて2万人にも及ぶ犠牲者を出しました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。今回の震災で私は、体が揺さぶられ、魂まで揺さぶられ、自分が日本人であること、特に東日本に生まれ育ったということを強く意識させられました。

 茨城県古河市にある当山一向寺は、同じ茨城県内でもそれほど大きな被害ではありませんでした。しかしそうはいっても、本堂内のは損傷し、本堂前の大きなが倒壊しました。墓石にも被害が出ました。また境内の井戸は壊れ、庫裡の屋根瓦が落下し、壁もあちこちひび割れしました。そしてあの日、テレビに映し出された光景は、今まで見たことのない、想像を絶するものでした。

 人々の悲痛な叫び声を耳にしたとき、いてもたってもいられなくなりました。私の所属している内科学会、循環器学会から緊急メールがあり至急ボランティアの医師を募集するとありましたので、直ちに応募しようと思ったのですが、簡単にはいきません。

一向寺は、甚大ではありませんが、被災しましたので、その対処と檀家様方の安否確認をしなければなりません。平成22年10月に晋山式を厳修したばかりの新米住職にとっては、寺房の仕事を放り投げて長期間ボランティアに飛び出していく訳にもいきませんでした。

特に3月、4月、5月は寺房の予定が立て込んでおり、寺房を離れることのできるのは、友引を挟んだせいぜい3、4日程度。そこで期日指定で応募しました。しかしお声がまったくかかりませんでした。冷静に考えてみれば当然ですよね。5年前に内科の最前線から引退した医者が、他の医療スタッフも伴わず、単独で3-4日手伝いますといっても、相手側にすれば迷惑な話でしょう。

2012年1月15日 (日)

「インフルエンザの話」④ ドクター ミネの健康法話 

(4)インフルエンザの症状と治療

 インフルエンザの症状ですが、ぞくぞくとした寒気を伴った発熱から始まります。熱は38度以上、しばしば39度以上となります。これに、頭痛、腰痛、筋肉痛、全身倦怠感が加わります。

この倦怠感のために、高齢者は起き上がれなくなり、脳卒中疑いで入院させたら、実はインフルエンザだったということもしばしばあります。乳幼児はぐったりして、母親から離れないという状態になります。

少し遅れて、咽の痛み、咳、鼻詰りなどが出現します。また嘔吐や下痢といった消化器症状を伴うこともあります。通常は一週間から10日ぐらいで自然に回復します。

 治療としては、内服ないし吸入の抗ウイルス薬があります。インフルエンザの症状が出現して2日以内であれば有効です。この抗ウイルス薬は、症状軽快までの時間を短縮させる効果がありますので、投与後1-2日で解熱します。

ただし、熱が下がってもインフルエンザウイルスは体内にいますので、薬を途中で勝手にやめると再発します。また、熱が下がっても感染能力がありますので、学校や職場に復帰する際には、必ず医師の指示に従ってください。

 予防ですが、インフルエンザは飛沫感染ですので、家族がインフルエンザになった場合、1.5-2メートル程度の間隔をとれば感染を防ぐことができます。うがい、手洗いも必要でしょう。そしてなんとっても予防接種です。高齢者の方々には、市町村が一部公費負担してくれるので、必ず予防接種を受けることをお勧めします。また外出時にマスクをするのも予防には有効です。

ウイルスの大きさはマスクの穴よりはるかに小さいのですが、マスクにより常に鼻やのどが、高温、高湿に保たれると、気道粘膜における自己の免疫機能が充分に働くことができるので、ウイルスが体内に侵入するのを防いでくれるのです。

「インフルエンザの話」③ ドクター ミネの健康法話 

(3)なぜインフルエンザは怖いのか

 人類の有史以来、実に多くの人々がインフルエンザで命を落としました。大正以降ですら、「スペイン風」と呼ばれる大流行で、日本ではわずか4ヶ月で26万人、世界では2300万人もの死者をだしています。

しかし現在では、インフルエンザで死亡する人はそれほど多くはありません。それは何故でしょうか。実は、インフルエンザに関連した合併症の死亡原因で最も多いのは肺炎です。平安時代の流行では、が発生して、死亡者を多数出したとあるし、増鏡には「しはぶき(咳)やみはやりて人多く失せたまふ」とあります。

インフルエンザに合併する急性気管支炎は普遍的で、その50%に細菌感染を合併します。その原因菌は、インフルエンザ菌(インフルエンザウイルスとは別物)、肺炎球菌、黄色ブドウ球菌などです。

特に1957年の「アジアかぜ」流行のときの死亡症例の検討から、黄色ブドウ球菌による細菌性肺炎の合併が注目を浴びました。黄色ブドウ球菌の産生する蛋白分解酵素は、インフルエンザの感染力を高めますし、ウイルス感染に伴い気道粘膜が障害を受けると、今度はここに黄色ブドウ球菌が定着して増殖し、さらに奥に入って気管支炎や肺炎を発症するのです。

黄色ブドウ球菌による肺炎は、他の細菌による肺炎よりも重症化します。強力な抗生物質がなく、また栄養状態の悪かった時代では、細菌の二次感染による細菌性肺炎を併発して死亡したのです。現代においても、肺に重篤な基礎疾患をもった高齢者は、肺炎を併発して死亡する率が増加します。

 また心臓に重篤な基礎疾患をもった高齢者は、インフルエンザ感染をきっかけに心不全を増悪させます。ちなみにドクターミネは、インフルエンザ大流行時には、心不全の重症化と死亡率が増加することをアメリカ老年病学会誌に報告しています(Minezaki KK etc, JAGS 2001; 689)。

 学童前の幼児においては、インフルエンザ脳炎という、稀ですが怖い合併症があります。北海道でのインフルエンザ脳炎9例の報告をみると、すべてが6歳以下(平均3歳)で、9例中5例が死亡、2例が後遺症を残し、2例だけが後遺症もなく退院したとのことです。

インフルエンザ様症状が出現して、2日以内にけいれん、意識障害といった神経症状が現れ、あっという間に進行して、死に至ることもあります。しかも幼児というのは、38度以上の発熱があると、インフルエンザとは無関係に、熱性けいれんをおこす子供がいます。

よって脳炎のけいれんか、熱性けいれんかの鑑別が大変難しくなります。けいれんの後で子供が興奮して、「ポケモンがみえる」など変な事を口走る、視点があわないなどの症状がでたら、脳炎を疑う必要があります。しかし専門の先生でも診断は難しく、死亡率も高いのが現状です。

「インフルエンザの話」② ドクター ミネの健康法話 

(2)インフルエンザウイルスについて

 では、細菌とウイルスの違いは何でしょうか。細菌は自ら増殖する能力を持っていますが、ウイルスは自ら増殖する能力を持っておらず、他の細胞に寄生して増殖します。ウイルスの本体はDNAかRNAというゲノムです。

要するにウイルスは、自らを複製増殖するための命令指示書のみを持っているのです。そして人間などの細胞に感染すると、その命令書を細胞内のリボゾームなどの蛋白合成工場に勝手に送ります。すると感染細胞は、その命令書に従って、ウイルスをどんどん複製してしまうのです。このようにしてウイルスは増殖していきます。

 インフルエンザはRNAウイルスで、気道から感染します。つまり、咳やくしゃみで空気中に排出されたウイルスを吸い込む事で感染します。鼻、のど、気道粘膜細胞に取り込まれると、4-7時間で数百万個のウイルスに増殖します。感染後症状が出るまでの時間(潜伏期間といいます)は18-72時間ですが、この頃にはウイルス量は1億個以上になります。なお一回の咳で、約10万個のウイルスが飛び散るといいますから、すごいことですよね。


 インフルエンザウイルスはA、B、Cの3つの型があります。このうちAとB型が流行をおこしますが、特に大流行をおこすのはA型です。

このA型インフルエンザは、人畜共通感染症であり、鳥、豚、馬にも発症します。鶏インフルエンザ問題が連日放送されたことがあるので、記憶に新しいと思います。A型ウイルス粒子表面には、HAとよばれるスパイクと、NAとよばれるスパイクがあります。

特にA型のHAスパイクは15の亜型が、NAスパイクには9の亜型があります。これらの亜型の組み合わせが少しかわるだけで、新しいウイルスとなるため、なかなか有効な抗体が産生できないのです。その上数十年単位で、突然まったく新しい亜型が出現します。

例えば、第一次世界大戦終戦の陰の立役者「スペイン風」はH1N1型でした。それが1957年の「アジアかぜ」はH2N2型、1968年の「香港かぜ」はH3N2型、1977年「ソ連かぜ」はH1N1型と、敵はめまぐるしく型を変えてくるのです。

なぜこのような亜型が生じやすいのかといえば、鳥のインフルエンザは人間にはあまり感染しませんが(最近鳥インフルエンザが人間に感染した例が報告されましたが)、豚は人インフルエンザも鳥インフルエンザも感染します。

そのため豚を中心に、人と鳥のA型インフルエンザの遺伝子組み換えがおこり、新種が登場するといわれています。豚と人間が隣接して生活し、しかも水鳥も多い環境が、新型インフルエンザ発現の舞台になると考えられています。

毎年、いくつかの亜型の流行予想をたてて予防接種をつくります。予想が的中すれば流行を食い止める事ができますが、予想がはずれる、ないしはまったく新しい亜型ができると、予防接種は効きません。しかも「香港型H3N2」が出現した1968年以降、「アジア型H2N2」は姿を消してしまったため、若年者の方々にはH2に対する抗体がありません。そのため、「アジア型H2N2」が再燃すると、この年齢層に重大な影響がでることが予想されます。


「インフルエンザの話」① ドクター ミネの健康法話 

(1)インフルエンザに関する歴史

 インフルエンザを起こす原因は、インフルエンザウイルスです。Shopeがブタインフルエンザウイルスの分離に成功し、Smithらが1933年にヒトインフルエンザウイルスの分離に成功しました。

 インフルエンザという病気自体は、紀元前ヒポクラテスの時代から記録に残されています。16世紀のイタリアの占星家たちは、この病気が星や寒気の影響(influence=influenza)と考えていました。

 インフルエンザの大流行は世界的規模で発生しますが、それは過去も現在も同じであり、特に日本での大流行は、多くの場合は外国からもたらされました。

貞観14年(872年)の流行では、京に(ひどい咳のこと)発生死亡者多数という記録があり、その原因として、の客が外国から運んできたという噂があったようです。神仏に祈る以外治療がなかった時代ですから、延長元年(923年)には僧侶が読経を行い、長和4年(1015年)には春日大社でを捧げています。

久安6年(1150年)の大流行は、貴賤上下ことごとく発病し、死亡者が多数でました。このときも経典や史書を献上したの商人らの来日に一致しています。鎌倉時代の天福元年(1233年)の大流行の時には、京都に異国人がはいり、多くの人々がそれを見た為におこったであるとの記録もあります。

 江戸時代の初期は、おそらく鎖国政策の影響のためか、慶長19年(1614年)の流行以来、およそ百年間、大流行の記録はありません。しかし享保18年(1733年)におこった大流行では、江戸だけで一ヶ月に8万人もの人が死亡し、棺桶が不足して酒樽にまで遺体をいれるという大混乱でした。

このときは埋葬する場所も不足し、回向だけすませて、品川沖から海に流したそうです。この大流行もまた、アメリカやヨーロッパの流行に一致しています。また江戸の中期になると、インフルエンザに愛称をつけて呼ぶようになりました。そのいくつかを紹介します。

安永5年(1776年)の流行は、の城木屋お駒という妖婦にちなんで「お駒風」、天明4年(1784年)の流行は、自分は土俵の上では決して倒される事はないと豪語していた横綱谷風が、真っ先に風邪で寝込んだ事をして、「谷風」と呼ばれました。

とくに天明4年の流行は、天明の飢饉と重なり、相当の死者がでました。鎖国時代で唯一世界に窓が開かれていたのは、長崎の出島だけでした。また薩摩は、琉球を支配下において貿易を行っていたので、当時の人達は、インフルエンザの流行が九州から北上することを知っており、「薩摩風」「琉球風」などと称しました。ペリー来航の年である安政元年(1854年)にも流行があり、「アメリカ風」と名付けられています。

 明治23年(1890年)のアジアかぜが世界的に大流行したことから、インフルエンザのことを流行性感冒、略して流感と呼ぶようになりました。

また大正7年(1918年)、第一次世界大戦のため派兵されたアメリカ兵がヨーロッパに持ち込み大流行となったインフルエンザは、通称「スペイン風」呼ばれ、世界中では死者が2300万人にもおよびました。日本でもわずか4ヶ月で26万人が死亡しました。

第一次世界大戦終戦の陰の功労者は、インフルエンザであるといわれる所以です。戦後はインフルエンザと呼ばれるようになりましたが、通称の習慣は残り、1968年の流行は香港かぜ、1977年の流行はソ連かぜと呼ばれました。(参考文献:酒井シズ著、病が語る日本史、講談社)。


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