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2012年1月15日 (日)

「インフルエンザの話」① ドクター ミネの健康法話 

(1)インフルエンザに関する歴史

 インフルエンザを起こす原因は、インフルエンザウイルスです。Shopeがブタインフルエンザウイルスの分離に成功し、Smithらが1933年にヒトインフルエンザウイルスの分離に成功しました。

 インフルエンザという病気自体は、紀元前ヒポクラテスの時代から記録に残されています。16世紀のイタリアの占星家たちは、この病気が星や寒気の影響(influence=influenza)と考えていました。

 インフルエンザの大流行は世界的規模で発生しますが、それは過去も現在も同じであり、特に日本での大流行は、多くの場合は外国からもたらされました。

貞観14年(872年)の流行では、京に(ひどい咳のこと)発生死亡者多数という記録があり、その原因として、の客が外国から運んできたという噂があったようです。神仏に祈る以外治療がなかった時代ですから、延長元年(923年)には僧侶が読経を行い、長和4年(1015年)には春日大社でを捧げています。

久安6年(1150年)の大流行は、貴賤上下ことごとく発病し、死亡者が多数でました。このときも経典や史書を献上したの商人らの来日に一致しています。鎌倉時代の天福元年(1233年)の大流行の時には、京都に異国人がはいり、多くの人々がそれを見た為におこったであるとの記録もあります。

 江戸時代の初期は、おそらく鎖国政策の影響のためか、慶長19年(1614年)の流行以来、およそ百年間、大流行の記録はありません。しかし享保18年(1733年)におこった大流行では、江戸だけで一ヶ月に8万人もの人が死亡し、棺桶が不足して酒樽にまで遺体をいれるという大混乱でした。

このときは埋葬する場所も不足し、回向だけすませて、品川沖から海に流したそうです。この大流行もまた、アメリカやヨーロッパの流行に一致しています。また江戸の中期になると、インフルエンザに愛称をつけて呼ぶようになりました。そのいくつかを紹介します。

安永5年(1776年)の流行は、の城木屋お駒という妖婦にちなんで「お駒風」、天明4年(1784年)の流行は、自分は土俵の上では決して倒される事はないと豪語していた横綱谷風が、真っ先に風邪で寝込んだ事をして、「谷風」と呼ばれました。

とくに天明4年の流行は、天明の飢饉と重なり、相当の死者がでました。鎖国時代で唯一世界に窓が開かれていたのは、長崎の出島だけでした。また薩摩は、琉球を支配下において貿易を行っていたので、当時の人達は、インフルエンザの流行が九州から北上することを知っており、「薩摩風」「琉球風」などと称しました。ペリー来航の年である安政元年(1854年)にも流行があり、「アメリカ風」と名付けられています。

 明治23年(1890年)のアジアかぜが世界的に大流行したことから、インフルエンザのことを流行性感冒、略して流感と呼ぶようになりました。

また大正7年(1918年)、第一次世界大戦のため派兵されたアメリカ兵がヨーロッパに持ち込み大流行となったインフルエンザは、通称「スペイン風」呼ばれ、世界中では死者が2300万人にもおよびました。日本でもわずか4ヶ月で26万人が死亡しました。

第一次世界大戦終戦の陰の功労者は、インフルエンザであるといわれる所以です。戦後はインフルエンザと呼ばれるようになりましたが、通称の習慣は残り、1968年の流行は香港かぜ、1977年の流行はソ連かぜと呼ばれました。(参考文献:酒井シズ著、病が語る日本史、講談社)。


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