『日本人として生きる』⑤ Dr.Mineの仏教法話
する中で、何度も死を経験してきたはずなのに、その時の記憶が残っていないので、死は正直怖い。しかし死する時は必ずやってくる。是非に及ばず、その死を受け入れて、この世を出て行かなければなりません。
どうせ出て行かなければならないのであれば、先に逝った先輩達やご先祖様が待つ浄土(天国)に続く白い一本道を、後ろを振り返ることなく、胸を張って、威風堂々と歩いて出ていきたい。有り難いことに、私はの仏法に出逢う事ができました。歴史的にも多くの日本人が昔から、念仏を称えて死んでいきました。
私もまた、日本人として死を受け入れて死するために、毎日南無阿弥陀仏を称え、そして皆様方にも念仏をお勧めしているのです。
死する瞬間はどうなるのか。これも記憶にないからわからない。仏典には、その瞬間には錯乱し、失念するような状況がおこり、それが輪廻転生の最後の一押しになるとあります。
これを仏教用語では「の」といいます。それだって、嘘か誠か確認しようがない。この問題に関して上人はの一節を引いて、心配するな、念仏者であれば、心が錯乱し失念する前に、阿弥陀仏やその他大勢の仏様、つまり私達一人一人とご縁のある仏様がお迎えにきてくださるから安心して出て行けるのだとおっしゃっています。
よくおばあさんが、仏壇の前に坐って合掌して、「じいちゃん、さびしいからって、あんまり早く私を迎えにきたらやだかんね」といっていますよね。
これが日本人の伝統的死生観である「お迎え」です。仏教用語としてはといいます。これは昔から日本人の死生観の根本にあります。つまり、「俺が先に逝ったら、お前の臨終の時には必ず迎えにいくから、もしお前が先に逝ったら、必ず俺を迎えにきてくれよ」というものです。
日本人として死んでいくという事は、そういう死生観を受け入れるということだと、私は思うのです。
そして日本人の仏になるということは、どういうことなのでしょうか。後に残った人が嘆き悲しんでいたら、すぐそばにいって、その嘆きを聞いてじっと見守り続ける。そしてその人の臨終に際しては、阿弥陀如来と一緒に、お迎えに行く。
お盆、彼岸の時には、あの世とこの世を行ったり来たりする、という事です。しかしいつまでも、施主となる子孫が続くとは限りません。しかし心配はいりません。施主となる子孫が途絶えても、例えば一向寺の檀家様であれば、一向寺が続く限り、一向寺歴代住職と一向寺の檀家様方がご供養し続けてくれます。
日本人の仏になるということは、すべての日本人のための仏として、そしてご先祖様の一員として、後に残った者達を見守り続けるということなのだと、私は信じています。
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