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2014年7月

2014年7月31日 (木)

終末期医療におけるスピリチュアルペインについて⑥

(6)スピリチュアルケアについて
 スピリチュアルペインに対するケア(スピリチュアルケアといいます)についてお話しいたします。
 人間には、言葉に表す事でそれを認識するという特性が備わっています。ギリシャ語でロゴス、つまり言語のことですが、このロゴスは欧米では「神が与えたもの」として言葉を大事にします。また仏教でも、人間は五官から取り入れた情報を言語化して、それを言葉で記憶して理解するといいます。いずれにしても、自分には何が問題なのか、今何に苦しんでいるのかを言語化することで、自分で認識できるようになるのです。だから、患者がスピリチュアルペインを言葉で表出するということは、医療関係者にとっても、患者本人にとっても重要なことなのです。
 人は自分の苦しみを聴いてもらうことで、気持ちが落ち着き、考えが整います。相手の苦しみに耳を傾ける事、つまりは聴く事に徹すること、これを傾聴(けいちょう)といいます。この場合、決して自分の意見や批判をいわない、アドバイスもしない、話を勝手に要約しないという事が重要です。
 傾聴に関してもっとも大変なのは、沈黙に耐えるということです。多くの場合、患者本人は、何が問題なのか、どうしてほしいのか、何が希望なのかが混乱してしまい、うまく言葉に出せない状態にあります。それを沈黙の中で、必死で熟考しているのですから、それを邪魔しない事が重要です。相手に、自分の思いを語らせ切る事で、スピリチュアルペインは大分軽減するのですが、しかしそれを語るには、相当のエネルギーが必要です。
その為のエネルギー充電期間が、まさに沈黙なのです。だから聴き手が沈黙に耐えかねて、自分の意見をいったり、話題をそらしてしまうと、台無しになってしまいます。聞いているふりをして聞き流しているだけじゃないかと患者に思われるのが、もっと最悪です。常に意識を集中させて、いつも貴方の言葉に耳を傾けていますよ、という姿勢を見せ続けなければなりません。ですから傾聴には、特別な訓練が必要となるのです。
 またスピリチュアルケアに重要なのは、同意ではなくて共感であるといわれています。「私はあなたの苦しみが理解できます。そして私もそう思います。」というのが同意です。この場合、患者側にしてみれば、病気でもないあなたに、私の苦しみなんか分かる訳はない、という感情を起こしかねません。一方、「あなたは、こういう事で苦しんでいらっしゃるのですね。」というのが共感です。
同意と共感を比較してみると、同意の主語は「私」です。一方共感の主語は「あなた」です。つまり、あなたの苦しみを聴いて、その苦しみをしっかりと受け取りましたよ、と相手に返す事が共感です。私がどう観察したか、それが私にとって同意できるかどうかといった事は一切含まれていません。この共感的態度を示すことで、私の苦しみがわかってもらえた、この人は私の苦しみの理解者だ、と感じるのです。
 人間にとっての一番の恐怖は、孤独感です。どうしようもない孤独感に襲われた時、人は自殺に及ぶ事さえあります。特別な言葉を必要とせずに、ただ傍にいてくれる人がいる、これだけで人間は落ち着くのです。発達心理学者の浜田壽美男氏の言葉です。
  人には、自分が誰かから見られているということを意識すること
  によってはじめて、自分の行動をなしうるというところがある
 特別な言葉を必要とせずに、ただ傍にいてくれる人がいる、それだけで人間は落ち着くのです。無条件で「共にいる」ということ、例えば妻がすぐそばにいてくれるだけでいい、夫は無口であまりしゃべらないけれど、黙って横にいてくれるだけでほっとする、という感覚です。
ただ、共にいてくれる人は、一般的には他人より身内、同じ身内でも兄弟よりは子供か夫婦、子供よりも夫婦の方が最良ではないかと思うのですが、これまたそれぞれの家庭には事情がありますので、一概にはいえないところが現状です。

2014年7月30日 (水)

終末期医療におけるスピリチュアルペインについて⑤

(5)自律存在の喪失に伴うスピリチュアルペインについて
 自律存在とは「自己決定ができる自由が与えられている存在」と定義されます。自分が思うような事が思うようにできてこそ、自分が生きているという事が実感できるのです。つまり自律性は、自分の事は自分で出来るという事ですが、その存在の喪失とは、自分で自分の事をコントロールできなくなるという事を意味します。
 例えば人は、用便をもよおせば、いつでも自分の足で歩いて、トイレにいく事ができます。しかし脳卒中などで肢体不自由になると、大小便も、食事も、人の手を借りなければならなくなります。その結果、自分は人間として生きている事になるのだろうか、人の世話になってまで生きている値打ちがあるのだろうか、という思いに悩まされます。
これが自律存在の消滅によるスピリチュアルペインです。末期癌の患者はしばしば、大小便だけは最後まで自力で用を足そうとします。もう、そんな体力がないのだから、おむつをしたらいいじゃないか、と言われても、ぎりぎりまで、ポータブルトイレで用をたす事にこだわるのは、自律存在を失いたくないという思いのあらわれなのです。
 私が仕事で英国滞在中にお世話になった、チャップマン教授の奥様であるベロニックと午後の紅茶でお話しした時のことです。老後の介護の問題について欧米と日本の違いが話題になりました。日本では親の老後は子供が面倒をみるのが義務です。しかし欧米では国家が社会保障でみるようで、年老いた親を子供が同居で面倒をみるという習慣はないそうです。そのとき彼女はこういいました。
「私はマシュー(彼女の長男)のおむつを取り替えたわ。だって母親だから当然よね。でもどうして私がマシューにおむつを替えてもらわなければいけないの。それじゃ私、母親じゃなくなってしまうわ。」
日本型の介護システムは、介護される患者側に、この種の自律存在喪失によるスピリチュアルペインを呼び起こすのです。
 自律を失った人は、自分はもう何も出来なくなった、役に立たない人間になった、という想いに苦しめられます。我々の生きている社会が、できるという、自律を前提とした生産性に価値をおく社会だからだと解釈されています。人は「あいつは使えない奴」という評価を気にします。逆に「あいつは使える奴だ」という評価を求めます。
だから、自分が使えない存在だと感じた時、生きる価値や意味を失ってしまうのです。自律を失い「何も出来ない」「使用価値がなくなったから生きていてもしかたがない」と感じる苦しみは、「できる」「使用価値がある」が自分の存在に価値を与えてきた事によるものです。
「自分が役に立たなくなった」という思いは、自己選択肢の大切な存在を失う事を意味します。
 このスピリチュアルペインは、いわゆる老人病院や老健施設で多く見られます。例えば、風呂に入れないから身体がかゆいという苦しみは、入浴介助をしてもらって入浴できれば問題が解決しますが、自力で風呂に入れない自分が情けないという苦しみは、入浴介助で入浴できても、何の解決にもならないのです。
 認知症はスピリチュアルペインの塊です。アルツハイマー型認知症は、惚けている時と、比較的正常にみえる時とが交互にやってきます。素っ裸に近い状態で徘徊していて、突然正常な状態に戻った時、「どうして俺はこんな恰好をしているのだ、俺の頭はどうなってしまったのだ」という思いと同時に、周囲の冷たい、奇異の目を感じるのです。
どれほどのスピリチュアルペインか、容易に想像がつくと思います。しかも、妻や夫、子供の顔も分からなくなります。誰でも、初めて会った人と話す時には、緊張しますよね。認知症になると、それが妻や子供と会った時まで、そういうストレスに晒されるのです。

2014年7月29日 (火)

終末期医療におけるスピリチュアルペインについて④

(4)関係存在の喪失に伴うスピリチュアルペインについて
 関係存在とは「人の存在は、他者から与えられる」と定義されます。人は、他者の他者としての自分の存在を常に感じています。他者のいずれに対しても自分の存在はなんらの意味も持っていないという思いにとらわれた時、人はひどく落ち込むのです。R.D.レインの言葉を借りれば、
  人間は他者の存在の欠落を経験するのではなくて、他者に対す
  る他者としての自分の存在の欠落を経験する。
ということになります。
 わかりやすい例をあげます。夫としての私の存在は、妻がいるからです。父親としての私の存在は、息子達から与えられるということです。もし私が余命三ヶ月の末期癌であると判明した時、三ヶ月後には「妻にとっての夫としての私の存在」「息子にとっての父としての私の存在」が消滅してしまいます。
だからこそ、私の死後、家族は生活できるのだろうか、息子の学費は足りるだろうか、私は妻子に対して充分なことができたのだろうか、私のことを思い出してくれるのだろうか、などの苦悩が生じます。これが、関係存在の喪失によるスピリチュアルペインです。
 ある末期癌の患者さんが、お亡くなりになる直前におっしゃった言葉は忘れられません。
「私達夫婦は一生懸命に働いてきました。子供が小さいときは、必死で子育てしました。ようやく子供が独立し、私が定年退職となり、これから夫婦二人で温泉にでもいこう、といっていた矢先、私がこんな病気になってしまって。先生、私はもう、妻を温泉にも連れて行ってやれないのですよ。」
これこそが関係存在喪失に伴うスピリチュアルペインです。
 末期癌の患者さんの中には、医者の処方する薬は飲むのを止めても、家族が買ってきたアガリクスのような民間療法の薬をぎりぎりまで飲もうとする人がいます。こういう薬はとても高価ですが、そんな物を飲んでも絶対に良くならない事は、実は患者自身が一番分かっているのです。
しかし家族が自分の事を大事に思って、無理して買ってきてくれた事も知っているので、ぎりぎりまで飲もうとするのです。また、誰とでも一緒に写真を取りたがる終末期の患者がいます。私が死んでも、私という存在を忘れないで欲しいという思いの現れです。
 関係存在の喪失によるスピリチュアルペインは、何も末期癌患者の専売特許ではありません。例えば、認知症を抱える家族にも起こります。アルツハイマー型認知症の患者は、その病気の性質上、介護している妻や子供の記憶まで喪失します。徘徊や不潔行為等の症状に悩まされながらも、夫だから、父だからとがんばって介護しているのです。
ところがその妻や子供に向かって「あなたはどちらさんですか?」と尋ねるようになるのです。介護している妻としての存在が、子供としての存在が失われたと感じる瞬間です。今までしてきた苦労が水泡に帰したと感じる瞬間です。私が診ていた認知症高齢患者の妻が、ある時、ぽつんとこう呟きました。
「この人は愚痴一ついわずに、私や子供達の為に必死で働いてくれました。だから今、こんな状態になっても、恨むことなどできませんよね。」
自分が妻である事もわからなくなってしまった認知症の夫と、一日中一緒に暮らさなければならない妻の、絞り出すような慟哭でした。
 認知症を介護する家族が感じるスピリチュアルペインは、患者が死亡した後にも起こってきます。認知症だからとわかっていても抑えきれない苛立ちや怒り、その結果大声で怒鳴ったり、時には思わず手を挙げてしまったりしたかもしれない。そういうことを、後々思い出しては心に刃が突き刺さるのです。
 いかなるスピリチュアルペインでも、全面的に信頼できる連れ合いや子供がいる場合、関係を強める事で乗り切ることが可能となります。
また末期癌を看病する家族同士、認知症患者を介護する家族同士の交流が、お互いを慰め合い、励まし合い、新たな関係存在を構築することで、ケアされる事もあります(病院という場は、そういう新たな関係を築く僥倖(ぎょうこう)を与えてくれることがあります)。

2014年7月28日 (月)

終末期医療におけるスピリチュアルペインについて③

(3)時間存在の喪失に伴うスピリチュアルペインについて
 時間存在とは「今の自己の存在は、未来と過去によって支えられている」と定義されます。そしてその未来が失われたと感じた時にスピリチュアルペインを感じるのです。
 未来というのは何が起こるかわからないという要素を持っています。しかし私達は、何が起こるかわからないような未来を想定しているわけではありません。予定、予想、夢、希望、目標などを未来と認識しています。これらの未来には、必ずその前提となる過去の実績や体験があります。
例えば、Aという会社に就職した、営業部に配属されたという過去の実績から、取引先の人と会うという予定ができます。過去に接した看護師がとても頼もしく見えたという過去の体験から、私も看護師になりたいという夢、目標が生まれて、その未来を実現させるために、今のこの「時」を必死で生きているのです。もしその未来が何らかの原因で失われたとき、人は、今までの努力がふいになったと感じて絶望するのです。
 例えば、仕事中心で人生を送ってこられた方が、余命三ヶ月の末期癌であると判明した場合、半年先の仕事の完成はもちろんのこと、おそらく三ヶ月先の仕事の完成も眼にすることは不可能でしょう。三ヶ月先、半年先の完成を目指して必死に努力し、色々なものを犠牲にしてまでやってきた今までの日々。
これらがすべてふいになるのです。しかも余命三ヶ月の末期癌といっても、すぐに動けなくなるわけではありません。仕事は無理でも、一ヶ月ぐらいは身の回りのことができるぐらいの元気さがあります。しかし、仕事がすべてだった方にとっては、入院して仕事ができなくなると、「今、何をしたらいいのか」わからなくなります。余命が僅かなのに、今何もすることが見つからない、という苦悩が襲います。すると今度は、今までの「仕事の予定」という未来を作り出していた、頑張ってきた過去の実績や体験が無駄だったように感じられます。
「俺の今までの人生は何だったのだろうか」
これが時間存在の喪失に伴うスピリチュアルペインです。
 未来には少なからず「待つ」という要素が含まれます。特に夢や期待といった実現性のあまり高くない未来は、いつまで待てばよいのか分からないまま、待ち続けなければなりません。その結果、「いつまで待てばよいのか」「もう、待ちきれないよ」というスピリチュアルペインを呼び起こします。
完全回復を期待して入院してくる患者やその家族が、一ヶ月経っても、二ヶ月経ってもなかなかよくならない場合、「いつになったらよくなるのか」「いつになったら退院できるのか」という想いもまた、未来が失われたと感じる事によって生じる、時間存在の喪失によるスピリチュアルペインなのです。
 人はまた死を前にすると、今まで心の奥底に封印してきた過去の体験が甦ります。どうしてあの時、あんな事をして、あの人を傷つけてしまったのだろうか、という後悔が終末期の患者を苦しめます。それを直接謝ることができれば問題は解決しますが、相手がすでに死んでいたりすると、ことあるごとに思い出しては苦しむことになります。
 未来が失われたと感じることから生じるスピリチュアルペインに対する方策(スピリチュアルケア)としては、未来の再構築という方法があります。その一つが、意識を「近未来に固定する」というものです。
例えば余命三ヶ月の末期癌の患者の場合であれば、半年先の未来に生きる目標を据えるのではなく、近い未来に目標の変更をしていただくのです。明日は息子夫婦が孫を連れて来るから楽しみ、あさっては娘が大好きなうなぎを持ってきてくれるから楽しみ、という具合です。
 精神科医師フランクルは、ユダヤ人強制収容所経験をもっていますが、強制収容所では、クリスマスの後とか新年の後に死者が急増したと述べています。強制収容所内のユダヤ人は、クリスマスになると収容所から解放される、新年になると助けが来るといった、何の根拠もない期待を支えとして苦痛を堪え忍んでいた人が大勢いて、しかしクリスマスがきても新年が来ても何も変わらないという現実に絶望して死んでいったのだそうです。
彼は、未来がまったく見えない環境において、目先にある「無数の小さな問題にかかずらう」事で、絶望の淵からかろうじてしのいだと述べています。これはつまり「目先にある無数の小さな問題」という「近未来という今」に自らの意識を固定する事です。
 激しい苦痛というのは、実は「今」に縛り付けます。激痛の時には、未来にも、過去にも想いが巡りません。激痛に耐えるという「今」にすべてが固定されます。ですから、疼痛緩和治療というのは、患者さんに残された時間を有意義に過ごしていただくという利点もありますが、同時に「スピリチュアルペイン」を呼び起こす「間」を与えることにもなります。
 また人によっては、死後の世界という未来に望みを託すという方法で回復する人もいます。

2014年7月27日 (日)

終末期医療におけるスピリチュアルペインについて②

(2)スピリチュアルペインについて
 スピリチュアルペインは、直訳すると「魂(たましい)の痛み」「霊的(れいてき)な苦しみ」ということになりますが、これでは意味がわかりません。結局、適当な日本語訳がないので、通常はカタカナで表示されます。
例えば、末期癌で余命三ヶ月と宣告された時、自分の人生は一体何だったのだろうか、後に残る妻や子供が幸せに暮らしていけるのだろうか、死んだらどうなるのだろうか、などといった数々の苦悩や不安が生じます。これらの苦悩を総称して、スピリチュアルペインといいます。終末期の患者はしばしば、このスピリチュアルペインに悩まされることになります。
 村田久行先生(京都ノートルダム女子大学教授)は、人間の苦しみは、その人の置かれている客観的状況と、その人の主観的な想い、願い、価値観などの「ずれ」によって生じる、そして幸せとはその「ずれ」が無くなることであり、苦しみとはその「ずれ」が大きくなることであるというのです。
昔から我々医師は、治療によって医療者が客観的に判断しても、また患者が主観的に判断しても「治癒した」ないし「回復した」という形を追い求めてきました。つまり、村田先生のいう「ずれがなくなる」状況を目指してきたのです。しかしホスピス・ケアが必要となった末期癌患者の場合、客観的には回復が見込めません。
そういう終末期の患者さんには、患者側の主観的な想い、願いを現状の客観的状況に沿ったもの変えてもらわない限り、苦しみを減じることができないのです。どれほど悲観的状況であろうとも、その客観的状況を受け入れてもらわなければなりません。例えば余命半年の末期癌患者が、もし自分が癌であることを知らされていなかった場合、一日でもはやく病気を治して職場復帰したいという主観的な希望をもちます。
しかし、日に日に病状が悪化していく現実を前に、「いつになったら治るのだ」「いつまで待てば職場に復帰できるのか」というスピリチュアルペインで苦しむことになります。ですから、ホスピス・ケアには、癌告知が前提となるのです。自分が癌であるという現実を受け入れる事が、苦しみに対するケアの第一歩になるからです。
 スピリチュアルペインは、何も病気だけに限って起こる訳ではありません。例えば突然会社をクビになった人が感じる、「会社のためにあれほど頑張ってきた自分の人生って、いったいなんだったのか」といった嘆きです。例えば愛する妻に先立たれた夫が、「自分は夫として妻に、いったい何をしてやれたのだろうか」という嘆きもまたスピリチュアルペインです。ですからこの概念は、医療界のみならず、宗教界、哲学界でも注目されています。
 人間は、特に意識しないような当たり前の事を、当たり前のように行う事で時間を埋めています。親子でも、夫婦でも、当たり前すぎて、まったく意識していない事も数多くあります。この当たり前のことを「自明(じめい)」といいます。死という現実を突きつけられると、自分が今まで当たり前にしてきた事、相手から当たり前のようにしてもらっていた事に意識が向くようになります。
そしてそれが、当たり前ではなくなった事に気づくのです。これを「自明性の崩壊」といいます。スピリチュアルペインがおこる状況下では、この自明性の崩壊がおこります。
 村田先生はスピリチュアルペインについて「自己の存在と意味の消滅から生じる苦痛」と定義しています。そしてこの「自己の存在」を、時間存在、関係存在、自律存在の三つに分けて、それぞれが消滅した、喪失したと感じた時にスピリチュアルペインが生じるといっています。

2014年7月26日 (土)

終末期医療におけるスピリチュアルペインについて①

(1)終末期医療の関して
平成二十六年一月中旬に女優淡路恵子(あわじけいこ)氏が食道癌(しょくどうがん)で死亡したとの報道があり、波瀾万丈(はらんばんじょう)の人生が話題になりました。三人に一人は癌になる時代ですので、終末期医療についてお話しします。
 終末期ケアとか緩和ケアという医学用語をご存じでしょうか。末期癌患者の終末期をにおいて、患者のみならず家族も含めて、全人的なケアをする医療のことです。そして、その終末期ケアをおこなう施設をホスピスといいます。
 ホスピスは、1967年にシシリー・ソンダース医師により、セント・クリストファー・ホスピスが建設されたことが先駆けとなり、日本では1973年に、柏木哲夫(かしわぎてつお)医師により大阪の淀川キリスト教病院において、ホスピス・ケアを提供する病床が設けられました。
しかしホスピス・ケアを提供する場合、本人への癌告知が前提となります。日本では平成初頭の頃までは、患者に対する癌告知をしないのが一般的であったためホスピス・ケアは困難でした。その後社会環境の変化により癌告知が一般的になると、ホスピス・ケアに対する関心度が高まりました。
そしてホスピス医療が健康保険で認められるようになり、また在宅ホスピスに関しては介護保険適応が認められると、ホスピス・ケアが全国的に行われるようになりました。
 癌治療の第一目標はキュア(治癒(ちゆ))です。そのために抗がん剤治療、放射線療法、ホルモン療法、そして外科的切除術が行われます。早期癌であれば、内視鏡的切除術も可能です。
しかし、腫瘍の発生部位、組織型、悪性度、進行度、転移の有無などにより完全治癒が望めない場合、症状緩和と延命治療が目標となります。例えば完全切除が不可能な進行した大腸癌の場合、まずは腸閉塞を解除するために人工肛門手術を施行し、後に延命治療としての抗がん剤が投与されます。
しかし抗がん剤が効かなくなると、もはや延命治療すら放棄せざるを得なくなります。ここで登場するのが緩和ケアです。
 緩和ケアは、患者とその家族に、残された時間をより快適に過ごしていただくことを目的にしています。治癒を諦めるという選択をしても、死ぬまでには二、三ヶ月の猶予があります。まずは少しでも元気なうちに、財産整理やお墓の問題などの、社会的問題を解決する必要があります。
この始末がきちんとできていないと、その後の療養生活で、より一層苦しむことになります。また、最期を自宅で迎えるのか、それとも病院で迎えるのかという問題も、ご家族と充分に話し合っておく必要があります。
 そしていよいよ終末期となりますと、身の置き所のないような、だるさやしんどさが増してくるために、徐々にベッドでの生活時間が長くなります。癌による痛みのために痛み止めや麻薬が必要となります。
また、食事量も減少します。しかし食べられないからといってむやみに点滴をすると、かえって浮腫が増強し、痰が増えて苦しさが増すことになります。ですから終末期は、逆に水分補給を減らす必要性が出てきます。
 時間や場所、親しい人達の顔がわからなくなり、一日中うとうとし、昼夜逆転するような状況になります。また目覚めると、すでに亡くなった方々と会話を始めたりすることもあります。これらの症状は、少し良くなったり、逆に悪くなったりしながら、全体として衰弱していきます。体温が下がり、呼吸もいつしか不規則となり、遂には最期の時が訪れます。
 ところが死を前にすると、自分の心の奥底に封印してきたこと、傷つけられたまま癒えない心の痛み、逆に人を傷つけたことなどに意識が向くようになります。また親子、兄弟の葛藤なども表面化して苦しむことになります。これらをスピリチュアルペインといいます。

2014年7月25日 (金)

終末期医療と宗教について⑩

 どんな晩年になろうともそれを受け入れて、田代三喜様がされたように、恥ずかしい、情けないと思うような状況に陥っても、それが老いる、病気になって死んでいくという現実ですから、ありのままの姿を次の世代にみせて死んでいくことこそが、人間として生きてきた最後の役割のように思います。
この問題に関して、昭和の名僧、内山興正(うちやま こうしょう)老師は、実におもしろいことをいっています。
  人生の最後には世捨て人じゃなくて、世捨てられ人のような状態
  になるでしょう。その世捨てられ人のような状態をぐずらずに受け
  て立ち、それを勤め上げることに情熱をもやす。
  その生き方を、「一行に遇うて一行を修す」というのです。
昭和を代表する禅僧でも、老境に入れば、「世捨てられ人のような状態」になられたのかもしれません。しかしそれをぐずらずに受けて立ち、それを勤め上げることに情熱をもやすというのは、いかにも老師らしい言葉です。

2014年7月24日 (木)

終末期医療と宗教について⑨

 医者から突然末期癌を宣告された場合、まずは「否認」がおこります。
嘘だ、何かの間違いだと思い込もうとします。末期癌といえども、はじめはそれなりの体力が残っていますからね。否定してくれる医者を求めて、あちこちの医者を渡り歩く人もいます。しかし、だんだん自覚的にもしんどさが増すようになると、自分が末期癌であることを受け入れざるを得なくなります。
また、手術、抗がん剤、放射線でガンと闘ってきた方も、抗がん剤や放射線が効かなくなる時が来れば、自分が末期癌であることを受け入れざるを得なくなる時期が訪れます。すると自らの不幸を嘆くようになります。
どうして自分だけこんな不幸に会わなければならないのか。俺はそれほど悪いことをしてきた訳でもないのに、世の中には俺よりもっと悪いことをしてきた奴が一杯いるのに、そいつらには罰が当たらずに、どうして俺にだけこんな不幸が来るのか。そういう思いにとらわれて、家族の者や医療スタッフに八つ当たりすることもあります。
 また自分の人生を振り返り、自分の人生がまったく無意味であったように感じたり、過去の出来事に対する罪悪感にとらわれ、特定の人物にどうしても謝罪しなければならないという思いも起こります。これがスピリチュアルペインとよばれるものです。
スピリチュアルペインに関しては、健康法話に詳しくまとめましたので、興味のある方は、ご参照ください。
 私達は、死ぬという体験ができません。自らに死が訪れた時には、体験自体が終わってしまうからです。私達に可能な死の体験は、いつも「死なれる」という体験だけなのです。死なれるという体験を通して、自らに死が訪れることを考えさせられるのです。
しかも死に方を選ぶこともできません。生まれてくる時や場所を選べないように、いつ、どこで、どんな状態になって死ぬのかということも選ぶことができないのです。末期癌で死ぬかもしれないし、卒中で寝たきりになって死ぬかもしれない。案外ポックリ死ぬかもしれない。
 私はこう思うのです。これをご覧になっている方々は皆、今までずっと一所懸命に生き、そして自分の責任を果たしてこられたはずです。そして一所懸命に生きた先に、終末期がやってきます。ですから、どのような状態になろうとも、その死に様というのでしょうかね。死んでいく姿を次の世代に見せるというのが、最後の最後に残された役目のように思うのです。
脳卒中や認知症でぐずぐずになって、家族に迷惑を掛けるかもしれない。癌による闘病生活で、家族に苦労をかけるかもしれない。でもそれが、決して避けることのできない、死ぬという現実なのです。きれい事では済まない現実なのです。後に残る人達は、介護することで、自分の時間を犠牲にし、時に悩み、時に苛立ち、時に八つ当たりするかもしれない。
しかし、そういったすべての体験を通して、次の世代は、自分にもいつか、死が訪れることを学ぶのです。私達はぎりぎり最後の仕事として、田代三喜様ほどのことはできないにしても、後に残る大切な家族や、多くの次の世代の方々に、人はこうやって死んでいくものだという現実を見せることで、死を学ばせるという役目があるように思います。
きれい事では済まない現実。アンケートでは81%の人が延命治療を望まないと答えていますが、答えている人のほとんどは人ごとです。実際に自分の親がそういう状況になって、その選択を迫られたら、大変悩みながら決断することになります。テレビやドラマではない、ぎりぎりの現実の体験です。しかしその体験を通して次の世代は、自分の死について考えるのです。

2014年7月23日 (水)

終末期医療と宗教について⑧

 他人事としては、胃瘻で生かされている人をみると、自分はこんな状態になってまで生きていたくない、という思いが生じます。
だから、七割以上の人が胃瘻を望まないと回答しています。しかし一方、胃瘻を作らなければ、月単位、年単位の寿命を縮めることを意味します。寝たきり状態になった本人は、意思表示できませんから、胃瘻を作るか否か、家族がその決断を迫られます。もし仮に本人が元気なときに、終末期になったら胃瘻も人工呼吸器もいらない、といっていたとしても、胃瘻を作らなければ、結果として月単位、年単位の命を縮める可能性があると知ったらどうでしょうか。
一方、胃瘻をつくっても脳卒中による麻痺はよくならないし、認知症もよくなりません。つまり寝たきり状態はまったくかわりません。寝たきりの状態で寿命だけが延びるということです。「延命措置としての胃瘻や人工呼吸器装着を拒否する」という本人からの、遺言書のような法的効力のある文書でもないかぎり、胃瘻拒否という決断を、家族本人に変わって行うのは、相当悩むことになります。
本人が元気なときに、延命処置はいやだといっていたという理由で、家族が胃瘻をつくらないという方針を固めたとしても、普段病院に見舞いに来ないような親族がたまたまやってきて、無責任な正義感を振り回して「お前達は○○を見殺しにするのか」といわれると、決断が鈍ります。
こういう無責任な正義感を振り回す輩にかぎって大変な介護を手伝うわけでもなく、口だけ出すのです。世の中には、自分が実際に手を汚す必要がなければ、大声で、無責任な正義感をふりかざす輩がいるのも現実です。
平成25年お亡くなりになったアンパンマンの作者、やなせたかしさんの言葉を思い出します。
「正義とは何か。傷つくことなしには正義は行えない」

2014年7月22日 (火)

終末期医療と宗教について⑦

 胃瘻の場合は、人工呼吸器以上に悩ましい問題があります。本来、ものを飲み込むという行為は、胎児の時代から無意識のうちにやっている行為なので、簡単に考えがちです。
しかし脳神経学的には、実に多くの神経とそれに関与した筋肉によって行われています。口は、食べ物の道と呼吸の道と共通です。咽で、呼吸の道は気道、食べ物の道は食道に分かれます。一日の多くは呼吸のために、気道が使われています。
しかしものを飲み込む場合は、食べ物や飲み物が気道に入らないように、まずふたをします。同時に呼吸も止めます。その状態で、周囲の筋肉を使って、食べ物を勢いよく食道に送り出します。その後は食道が、自律神経の働きで、食物を胃へと送ります。食べ物がすべて食道にいったことが確認できたら、気道のふたを開けて、呼吸を再開します。
これを三度の食事、おやつを食べているとき、お茶やコーヒーを飲んでいるとき、そして一日約2L出ると言われる唾液も飲み込んでいます。それがもし、脳血管障害などのために、このシステムのいずれかに不具合が生じると、食べたものや飲み物が食道に送れないばかりか、気道に入る事もあります。
食べ物や飲み物が肺に入ると、猛烈な拒否反応がおこります。これが嚥下性(えんげせい)肺炎です。現在死因第3位が肺炎ですが、これは嚥下性肺炎も含まれるからです。
 ですから、脳に障害が起こると、まずは絶食にして様子を見ます。その後、造影剤を飲み込ませてみて、肺に入らないかどうか確認します。もし少しでも肺に入るようであれば、嚥下性肺炎で死ぬことになるので、医者は胃瘻を勧めるのです。元々胃腸に問題はないので、胃瘻ができれば食べ物ばかりではなく、内服薬も今まで通り服用できますし、脱水にならないように水分補給も可能です。
嘔吐による誤嚥(ごえん)、唾液の誤嚥だけは防げませんが、胃瘻を作ると、その後年単位で寿命が維持されることも稀ではありません。つまり、寝たきりの状態で生き続けるのです。

2014年7月21日 (月)

終末期医療と宗教について⑥

 ただ、衰弱して意識もない状態で、胃瘻や人工呼吸器に繋がれて、かろうじて生命を維持している姿をみると、これが人間の尊厳を維持した姿と言えるのだろうか、という思いにとらわれます。
最近では、特に末期癌の場合、前もって胃瘻や人工呼吸器を望むか否か、本人や家族と相談します。末期癌の場合、すべての臓器が衰弱していますので、胃瘻をつくって無理矢理栄養を押し込もうとしても、吐いたりして、かえって患者を苦しめることになります。呼吸に関しても同じ事が言えます。
ですから末期癌の多くの場合は、人工呼吸器も胃瘻も行いません。アンケートによれば水分補給のための点滴だけは61%の人が希望すると答えていますが、現場では、この点滴もできる限り行いません。末期癌の終末期、痰が増えます。痰がつまれば苦しいし、かといって自分で痰を出す力もなくなりますので、やむなくチューブで強制的に吸引します。
しかしこれが患者にとっては相当苦しい思いをさせます。終末期における水分補給は、この痰を増やして患者を苦しめる結果となりますので、穏やかにできるだけ眠ったような最後を迎えていただくためには、余計な点滴をしないことが重要なのです。
 悩ましい問題が多いのは、認知症や脳卒中の終末期の場合です。まずは人工呼吸器に関して申します。現代では、寝たきりの終末期患者さんが、徐々に呼吸が弱くなれば、人工呼吸器をつけても余命延長はそれほど期待できないので、ご家族と相談して、人工呼吸器を装着しないという選択が多く行われています。
しかし脳卒中の急性期で呼吸が停止すれば、現在では救急救命士が気管内挿管を認められていますので、救急センターにて人工呼吸器に装着されると思います。その後自発呼吸がでてくれば、人工呼吸器を外すことができますが、自発呼吸が出てこないと、ずっと人工呼吸器で生かされるという状態になります。

2014年7月20日 (日)

終末期医療と宗教について⑤

 平成25年10月12日の読売新聞にアンケート調査の結果が掲載されました。それによると、終末期において、延命治療を望まないと回答した人が81%にも上りました。
また同年6月28日の読売新聞には、胃瘻(いろう)に関する意識調査が掲載されていて、7割以上の人が終末期における胃瘻を望まないとのことでした。人工呼吸器装着に関しても同様の回答が得られました。胃瘻というのはどういう物かと申しますと、お腹に穴を開けて、胃に直接バルーンチューブをいれて、これを留置し、このチューブから栄養や水、薬などをいれるというものです。
 私達は一日およそ2200—2400キロカロリーを摂取しています。生命維持の為には、年齢や体格にもよりますが、1400キロカロリー程度は必要になります。これを皆さんがよくご存じの「点滴」で補うことができるかというと、全く不可能です。一日中点滴をしても、せいぜい300キロカロリー程度です。1000キロカロリー以上不足してしまいます。
だから、手術などのために、一時的に食事をとることができない患者では、中心静脈栄養といいますが、カテーテルを頸や鎖骨下から心臓まで挿入して、心臓に高濃度の栄養をいれるという方法をとります。この方法の最大の問題点は感染です。高濃度の栄養をいれるカテーテルですから、どんなに消毒して留置しても、永く留置すれば、そのカテーテルに沿って細菌が入り込んで、敗血症をおこします。
ですから、留置できるのがせいぜい1ヶ月限度ですので、いわゆる終末期の医療には向きません。一方胃瘻は、たしかにチューブがお腹の外に出ていますが、もともと消化管は菌と仲良く暮らしている臓器ですし、特に胃は、常に塩酸が胃液として分泌されているため、特殊な菌以外は胃液により死滅してしまいます。普段から食べ物を介して細菌も入ってくる場所なので、胃瘻を通じて細菌が混入しても、ほとんど問題が起こりません。しかも胃瘻が不要になれば、そのまま抜けば、勝手に閉じてしまいます。

2014年7月19日 (土)

終末期医療と宗教について④

 通常の医療と、終末期医療との決定的な差は、ゴールの違いです。通常の医療は「治癒」「軽快」がゴールです。そのゴールに向かって治療します。しかし終末期医療の場合、ゴールは「死」です。「治癒」「軽快」はすでに望むことができないからこその終末期医療なのです。ですから、よりよい「死」を迎えていただくために、家族とスタッフが一丸となってお世話することになります。
 一方同じ終末期医療でも、末期癌の終末期と、卒中や認知症で寝たきりとなった終末期では、何が一番異なるかというと、ゴールが予想できるかできないかという点です。末期癌であれば、余命3ヶ月とか、半年とか、ゴールがある程度予想できるのです。しかも末期癌といっても、本当に介護が必要となるのは最後の一、二ヶ月です。ですから自分の家で死にたいという患者の希望を叶えようと家族が決断した場合、訪問看護師や在宅ガン専門医に協力してもらい、1、2ヶ月間全力投球すればいいことになります。
緩和ケア病棟に入院するにしても、入院期間は通常1ヶ月程度です。現在では、申請すれば介護休暇が得られます。その期間中は給与がある程度カットされますが、確か最大で93日、つまり3ヶ月休むことが可能ですから、この制度を充分に活用できます。
 しかし、脳卒中や認知症で寝たきりの終末期患者の場合、この予想がたちません。合併症により3ヶ月で死亡するかもしれないし、10年寝たきりという方もいます。いつまでがんばればいいのか予想ができないまま、がんばり続けることを要求されます。短期決戦になるのか、長期戦になるのか、先が見えぬまま介護し、あっという間に93日の介護休暇期間を使い果たしてしまい、結局は家族が退職せざるを得なくなる。決してきれい事では済まない現実です。

2014年7月18日 (金)

終末期医療と宗教について③

 以前何かの本に書いてあった話ですが、世の中にはおもしろいことを考える僧侶がいるもので、ポックリ観音なるものを建立して、参拝客を集めている寺院があります。
その中でも有名なお寺が奈良の方にあるらしく、ある旅行社が、ポックリ死にたいという高齢者を集めて、ポックリ観音参拝ツアーを企画したそうです。そうしたらびっくりする程の客が集まったそうです。無事に参拝して、帰路についている途中で、参拝客の一人がバスの中で突然気分が悪いと言い出して、そのうち意識がなくなってしまった。
旅行社はあわてて病院に搬送しましたが、結局帰らぬ人になりました。それで大騒ぎになったそうです。しかし、ほとんど苦しまずにあっという間に死んだのですから、これこそポックリ往生です。この観音様はまさに「霊験あらたか」ということになる。ところがこのツアーは、翌年から誰も応募しなくなったそうです。私はこの話を知って、大田南畝(おおた なんぽ)の狂歌を思い出しました。
「いままでは 人の事だと思ふたに 俺が死ぬとはこいつはたまらん」
今までは人ごとのように、どうせ死ぬならポックリ死にたいと思っていたからこのツアーにも楽しく参加したわけです。ところが実際に目の前でポックリ死んだ人をみたら、大田南畝がいうように、俺が死ぬとはこいつはたまらん、という気持ちになったわけです。
 実際に、母親にポックリ往生された友人の話です。その方は、夫婦、子供と母親の4人暮らしをしていました。あるとき、家族で旅行に行く話になり、お母様は「私が留守番しているから三人で行っておいで」といって笑顔で送り出してくれたそうです。午前10時に出発して、翌日の同じ10時に帰宅したら、そのお母様がこたつで倒れており、すでに死亡していました。
ほとんど苦しんだ様子もなかったそうです。いわゆるポックリ往生です。でも、実際に母親にポックリ亡くなられた友人は、後で相当悩むことになりました。何が原因でお袋は死んだのか、死ぬような病気があったのに、どうして俺は気づいてやることができなかったのか等々、ずっと後まで悩み続けました。彼があるとき、こう言いました。
「お袋が死んで、もうだいぶたつのに、お袋の亡くなる前日の顔と、こたつで死んでいた姿は今でも時々思い出すんだ。卒中で10年間寝たきりで死んだ親父の姿は、まったく思い出さないのに。」
 現役の内科医であった時、よく高齢の患者から、家族の者に迷惑がかかるから、できれば苦しまずにポックリ死にたい、と言われました。しかし、実際にポックリ死なれると、家族は後々まで引きずるものなのです。確かに病気になって入退院を繰り返して死んでいくことになれば、家族には大いに負担になる。でもそうやって、徐々に弱りながら、そして遂に最期の時を迎えるという死に方の方が、後に残る家族は「死を受け入れやすい」ものなのです。

2014年7月17日 (木)

終末期医療と宗教について②

 医療の発達を考える場合、その基礎に宗教がある限り、医療の発展は望めません。
どうしても「まじない医療」から抜け出せないからです。実は、世界的に見ても、医療の近代化の第一歩は、宗教と医療を切り離すということでした。日本の場合、これを医僧分離といいます。医僧分離により日本の医療が近代化したのは江戸時代以降です。その医僧分離の先鞭をつけた医師、医学教育者が、一向寺に仏像のある田代三喜(たしろさんき)です。
 田代三喜が活躍した室町時代末期においても、終末期医療は大変重要でした。田代三喜晩年の愛弟子である曲直瀬道三(まなせ どうざん)こそが、戦国時代から江戸時代にかけて医僧分離を確立し、日本に於ける漢方医学を大成しました。三喜は自らに終末期が訪れた時、若き曲直瀬道三を枕元に呼んで、終末期にはどのような肉体的変化が起こるのかを、自らの身体をもって教えました。
おそらくは糞尿垂れ流し状態になって、ぐずぐずになっていたであろう、自分の姿をあえて愛弟子にさらすことで、人間が死ぬという現実を示しました。
弟子の曲直瀬道三は、師の壮絶なる最後の教えが、どれほど凄いことか知っていたために、感激の涙で墨をすって、その教えを書物にまとめました。それを涙の墨の紙『涙墨紙(るいぼくし)』と名付けて後世に残しました。
 最近では、終末期医療の問題をマスコミでも取り上げられるようになりました。そして、寝たきりとなった患者、認知症の患者、末期癌の患者を支える家族のことが話題となり、時にテレビドラマや映画にもなりました。しかしそれらをみていると、現実はこんなきれい事ではすまないのだ、と感じてしまいます。

2014年7月16日 (水)

終末期医療と宗教について①

 今でこそ医療と宗教は別物と思われていますが、元々医療と宗教というのは、時代がさかのぼればさかのぼるほど密接な関係にありました。病気の原因がまったくわからなかった時代、治療法もまったく確立していなかった時代、病気になれば祈るしかありませんでした。
つまり、医療=宗教儀式でした。これは日本も世界も同じでした。そのうちに、例えばこの草を煎じて飲めば下痢が治まるとか、この葉を張っておけば出血は止まりやすいなど、経験の積み重ねから医学が生まれていきます。
日本の歴史において一大転機となったのが、奈良時代に、鑑真和尚によってもたらされた漢方医学です。以降、寺院で漢方の知識を得た僧侶が医師を兼ねるようになりました。これを医僧制度といいます。この制度はおよそ900年間にわたって存続しました。
 日本でもヨーロッパでも、医師といえば昔は内科医のみでした。今でいう外科医は、ヨーロッパではかつて床屋が受け持っていました。しかし日本では、主に外科医も陣僧とよばれる僧侶でした。外科医がどうしても必要となるのは戦のときです。戦場で唯一の非戦闘員が陣僧でした。
彼らは、戦場で亡くなった兵士を弔うことが主な仕事でしたが、僧侶になる過程で多少なりとも学んだであろう、漢方医学の知識があり、刀で切られた、槍で刺された、鉄砲で撃たれたといった傷や、落馬して骨折した等、今で言う外科医、整形外科医として医療を行っていました。

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