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2014年7月24日 (木)

終末期医療と宗教について⑨

 医者から突然末期癌を宣告された場合、まずは「否認」がおこります。
嘘だ、何かの間違いだと思い込もうとします。末期癌といえども、はじめはそれなりの体力が残っていますからね。否定してくれる医者を求めて、あちこちの医者を渡り歩く人もいます。しかし、だんだん自覚的にもしんどさが増すようになると、自分が末期癌であることを受け入れざるを得なくなります。
また、手術、抗がん剤、放射線でガンと闘ってきた方も、抗がん剤や放射線が効かなくなる時が来れば、自分が末期癌であることを受け入れざるを得なくなる時期が訪れます。すると自らの不幸を嘆くようになります。
どうして自分だけこんな不幸に会わなければならないのか。俺はそれほど悪いことをしてきた訳でもないのに、世の中には俺よりもっと悪いことをしてきた奴が一杯いるのに、そいつらには罰が当たらずに、どうして俺にだけこんな不幸が来るのか。そういう思いにとらわれて、家族の者や医療スタッフに八つ当たりすることもあります。
 また自分の人生を振り返り、自分の人生がまったく無意味であったように感じたり、過去の出来事に対する罪悪感にとらわれ、特定の人物にどうしても謝罪しなければならないという思いも起こります。これがスピリチュアルペインとよばれるものです。
スピリチュアルペインに関しては、健康法話に詳しくまとめましたので、興味のある方は、ご参照ください。
 私達は、死ぬという体験ができません。自らに死が訪れた時には、体験自体が終わってしまうからです。私達に可能な死の体験は、いつも「死なれる」という体験だけなのです。死なれるという体験を通して、自らに死が訪れることを考えさせられるのです。
しかも死に方を選ぶこともできません。生まれてくる時や場所を選べないように、いつ、どこで、どんな状態になって死ぬのかということも選ぶことができないのです。末期癌で死ぬかもしれないし、卒中で寝たきりになって死ぬかもしれない。案外ポックリ死ぬかもしれない。
 私はこう思うのです。これをご覧になっている方々は皆、今までずっと一所懸命に生き、そして自分の責任を果たしてこられたはずです。そして一所懸命に生きた先に、終末期がやってきます。ですから、どのような状態になろうとも、その死に様というのでしょうかね。死んでいく姿を次の世代に見せるというのが、最後の最後に残された役目のように思うのです。
脳卒中や認知症でぐずぐずになって、家族に迷惑を掛けるかもしれない。癌による闘病生活で、家族に苦労をかけるかもしれない。でもそれが、決して避けることのできない、死ぬという現実なのです。きれい事では済まない現実なのです。後に残る人達は、介護することで、自分の時間を犠牲にし、時に悩み、時に苛立ち、時に八つ当たりするかもしれない。
しかし、そういったすべての体験を通して、次の世代は、自分にもいつか、死が訪れることを学ぶのです。私達はぎりぎり最後の仕事として、田代三喜様ほどのことはできないにしても、後に残る大切な家族や、多くの次の世代の方々に、人はこうやって死んでいくものだという現実を見せることで、死を学ばせるという役目があるように思います。
きれい事では済まない現実。アンケートでは81%の人が延命治療を望まないと答えていますが、答えている人のほとんどは人ごとです。実際に自分の親がそういう状況になって、その選択を迫られたら、大変悩みながら決断することになります。テレビやドラマではない、ぎりぎりの現実の体験です。しかしその体験を通して次の世代は、自分の死について考えるのです。

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