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2018年3月14日 (水)

終末期医療について(4)

ドクターミネの毒舌健康法話
 前回は胃瘻(いろう)、人工呼吸器について説明しました。他人事としては、延命治療によって生かされている人をみると、自分はこんな状態になってまで生きていたくない、と感じるので、八割の人が延命治療を望まないと回答しています。しかし実際の場合、脳卒中や認知症で寝たきり状態になった本人は、意思表示できませんから、特に胃瘻を作るか否か、家族がその決断を迫られます。確かに胃瘻を作らなければ、月単位、年単位の寿命を縮める可能性があります。しかし胃瘻をつくっても麻痺(まひ)や認知症は改善しません。つまり寝たきりの状態で寿命だけが延びるということです。
 家族が悩み抜いた末に、胃瘻をつくらないという方針を固めたとしても、普段は病院に見舞いに来ないような親族がやってきて、無責任な正義感を振り回して「お前達はこいつを見殺しにするのか」といわれると、決断がにぶります。こういう無責任な正義感を振り回す輩(やから)にかぎって大変な介護を手伝うわけでもなく、口だけ出すのです。世の中には、自分が実際に手を汚す必要がなければ、大声で、無責任な正義感をふりかざす輩がいるのも現実です。アンパンマンの作者、やなせたかしさんの言葉を思い出します。
「正義とは何か。傷つくことなしには正義は行えない」
 一方胃瘻を造らないという決断は、自然死を自宅で迎えることを意味します。病院は本来治療をするべき場所ですから、ただ自然死を待つだけの患者を入院させておくことはできません。退院して、もし一日一本程度の点滴を望まれるのであれば、自宅で往診医に頼むことになります。第二回目でお話ししたように、二〇三〇年には三人に一人が六十五歳以上の高齢者となりますので、入院ベッドが圧倒的に不足します。ですから、特に今後は、自然死を望むということは「自宅での死」を念頭に置いたうえで、準備を進める必要があります。
 私達は、死ぬという体験ができません。私達に可能な死の体験は、いつも「死なれる」という体験だけです。死なれるという体験を通して、自らの死を考えるのです。しかも死に方を、選ぶことができません。末期癌で死ぬかもしれないし、脳卒中や認知症で寝たきりになって死ぬかもしれない。案外ポックリ死ぬかもしれない。
 ドクターミネの健康法話をお読みくださる方々は皆、今までずっと一所懸命(いっしょけんめい)に生き、そして自分の責任を果たしてこられたことでしょう。そして一所懸命に生きた先に、終末期がやってきます。ですから、どのような状態になろうとも生き切る。言い換えれば、その死に様を、死んでいく「ありのままの姿」を次の世代に見せるというのが、最後の最後に残された役目のように思います。後に残る次の世代の方々に、人はこうやって死んでいくものだという現実を見せることで、死を学ばせる。これが人生最後の仕事だと思います。脳卒中や認知症で家族に迷惑を掛けるかもしれない。癌による闘病生活で、家族に苦労をかけるかもしれない。でも、それが死ぬという現実です。
アンケートでは八割の人が延命治療を望まないと答えていますが、答えている人のほとんどは他人事です。実際に自分の連れ合いや親、時には子供がそういう状況になって、その選択を迫られたら、大変悩みながら決断することになりますです。死に方を選択できないのであれば、どのような死に方になろうとも、念仏を称えて受け入れる。念仏は、よりよい死を迎えるためのものではありませんが、結果として、どのような死に方になろうとも、念仏を称えてすべてを受け入れる。お迎えが来るまで、どんな事があろうともとにかく生き抜いて、その死んでいく姿を次の世代に見せる。これが私達のするべき最後の仕事だと心得ています。

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