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2018年9月 3日 (月)

田代三喜翁略伝 1

田代三喜(1465ー1544)は、名が導道、諱(いみな)を三喜(三帰とも記す)、字(あざな)を祖範といいます。また、範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、善道など、多くの号を用いていたとも言われています。
 田代家が歴史に登場するのは、今から800年以上前の嘉永・文治年間で、伊豆に田代信綱という侍が屋島の合戦で源義経に従って戦い、戦功をたてました。信綱は医者を兼ねていたこともあり、子孫は代々医者となりました。その八世孫である兼綱は、関東管領家である扇谷上杉持朝に従い、武蔵国にはいりました。
 田代三喜は寛正6年(1465)4月8日、その兼綱を父に、武蔵国越生(おごせ)ないしは川越で生まれました。現在、埼玉県越生町には、田代三喜生地の石碑が建てられています。文明11年(1479)15歳のとき、臨済宗妙心寺派の某寺にて僧侶となりました。当時は僧侶にならなければ医者になれなかったからです。その後、関東第一の学校、下野の足利学校に入学して修学しました。
 しかし、日本での勉強にあきたらず、長享元年(1487)三喜23歳のとき、遣明使の船に便乗して明国にわたりました。当時の明国には、名医として名高い日本人医師、月湖(げっこ)が銭塘江(せんとうこう)の近くにいて、三喜はこの月湖について、当時最先端の医学であった、金の李東垣、(りとうえん)元の朱丹渓(しゅたんけい)の医学(略して李・朱医学)を学びました。そして、合計12年間明国に滞在して、明応7年(1498)三喜34歳のとき、月湖の著書『類証弁異(るいしょうべんい)全九集』や『大徳済陰方』その他の医学書をたずさえて日本に戻りました。
 三喜はまず、鎌倉の円覚寺内江春庵(こうしゅうあん)に居を構えましたが、まもなく、下野(しもつけ)国足利に移り住むようになりました。当時の鎌倉は、うち続く戦乱のために、町が荒廃していました。一方当時の足利は、関東の一大文芸の地であり、母校足利学校もあり、おそらく旧友知人がいて、住み易かったと思われます。
 この地での活躍、特に連歌師(れんがし)猪苗代兼栽(いなわしろけんさい)の中風の治療などの功績が、下総(しもうさ)国古河(現茨城県古河市)にいた、古河公方足利政氏(成氏の子)の目にとまり、永正6年(1509)三喜45歳のとき、古河公方の御典医(ごてんい)になりました。古河における三喜の医療は、まさに起死回生の功績が多大で、このころより「古河三喜」と呼ばれるようになりました。また三喜はこのころ還俗(げんぞく)(僧侶から俗の人に戻ること)して、妻帯したといわれています。
 古河公方足利政氏とその子高基は不仲であったため、古河の地を住み難いと感じた三喜は、数年して古河を去り、関東一円を往来して庶民の医療に従事しました。そして大永4年(1524)三喜60歳のとき、生まれ故郷である武蔵国に帰りました。それでも、古河や足利にでむいて医療に従事していました。医学者としての三喜の代表的著書としては、三帰廻翁医書(三喜十巻書)、当流和極集などがあります。

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