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2018年9月 3日 (月)

田代三喜の医学史上果たした役割

 田代三喜は、名医のほまれが高く、それを伝える逸話も多いのですが、単に名医であったというだけであれば、木像まで作られて後世の人に像祀されることはなかったはずです。名医は一代限りであるため、その恩恵を受けた人たちが死に絶えれば、人の話題から消滅してしまいます。田代三喜の医学史の上での重要な働きは、以下の点であったと考えられます。
(1)当時中国で最先端の医学であった、李・朱医学を日本に伝えた。
(2)僧侶による医学教育から、現代にも通じる、医師が直接医学教育をするというシステムの先鞭(せんべん)をつけた。
(3)その結果、医療が宗教から分離された。

 南北朝から室町時代にかけての外科は、頻発する戦争により、特に兵士の傷の手当ての必要性から急速に発展しました。「金創医」とよばれましたが、多くは陣僧として従軍していた時宗の僧侶が技術を習得して、その役目を務めました。
 一方内科は、室町時代中期ごろまでは、宋(そう)代に著された安易な治療方針である「和剤局方」が専ら日本全国を支配し、単純な宋医学の模倣(もほう)というお粗末さでした。そんな時代に田代三喜は、当時の東洋医学の最高峰であった李・朱医学を日本にもたらしました。これは実証的医学の先駆けであり、三喜から医学を学んだ弟子は、曲直瀬道三、永田徳本をはじめ、数多く存在したため、後世派医学の開祖と呼ばれるようになりました。
 また医療の近代化の第一歩は、医学、医療が宗教から分離することです。田代三喜は、医と僧を分離するための先鞭をつけたということが最も重要な実績です。田代三喜以前の時代、医者になるためにまず、出家して僧となり、僧侶から医学を学び、医師として開業する際には還俗しました。これは日本に医学を伝えた鑑真和尚が僧医であり、奈良時代に完成した僧医制度が、その後も存続したためです。
おそらく室町時代においても主要な医学書は学問所を兼ねていた寺にしかなく、ひとかどの医者になろうと志したらまず、出家して僧となる必要があったのです。しかし、患者をほとんど診察したことのない僧侶が、医学書に書かれた内容を講義していたのでは、医学の進歩も、医療の進歩も望めません。ですからどうしても「まじない医療」が横行する結果となります。
 臨床経験の豊富な医師が、医学書に書かれたことのみならず、自らの医師としての経験を踏まえた内容を、医学生や研修医に教育するというスタイルは、現在ではどの国でも確立しています。実は日本においては、田代三喜と曲直瀬道三の師弟コンビが、まさに現代のこのスタイルを確立したのです。実証的医学とは、経験的事実の観察・実験によって積極的に証明していく医学のことですが、いくら李・朱医学が実証的であったとしても、臨床経験のない僧侶が、単なる知識の伝達として講義していたのでは、実証的な医療にはつながりません。
 現代にまで受け継がれた田代三喜の最大の功績は「医師が、医学生や研修医に対して医学教育をする」というスタイルの先鞭をつけたことです。江戸時代になれば、田代三喜がもたらした李・朱医学は過去のものとなり、明治以降はドイツ流の西洋医学、そして現代ではアメリカを中心とした西洋医学が基本となっていますが、実証的な医学を実践するための、その基礎となる医学が、時代とともに変化しただけのことなのです。
現代医療においても、田代三喜・曲直瀬道三の師弟コンビが確立した「医師が、医学生や研修医に対して医学教育をする」というスタイルによって、医学知識も、医療技術も、そして医師としての倫理も受け継がれています。

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