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2018年9月 3日 (月)

蓮池山無量院一向寺と田代三喜木像との関連

 なぜ一向寺に田代三喜木像が安置されるに至ったについては、二つの説があります。
一つの説は、田代三喜の墓がある永仙院が廃寺になるときに、そこに安置してあった田代三喜木像を、近くにあった一向寺に移して安置したというものです。
もう一つの説は、古河史跡保存会作成の『医聖 田代三喜翁略伝』が採用した説です。古河に高橋三貞という田代三喜の弟子筋の医者がいて、この方が田代三喜木像を所持していました。しかしその子孫の代になり、家業が衰え、結局この木像を、古河台町にあった下野屋という質屋に手放しました。
この質屋の一番奥の土蔵に大事に保管してあったのですが、主人である増田治兵衛に嫁入りし、まもなくその妻が奥の土蔵に入り、突然この木像をみて、驚いて、気絶したという珍事がおこりました。そこで増田治兵衛は、当時親交のあった一向寺第29世住職歓阿顕霊(かんあけんれい)和尚に話し、弘化2年(1845)ごろに一向寺に奉納したとのことでした。
実際の田代三喜像ですが、長さ2尺5寸(約75センチメートル)の座像で、服は赤色、金色で梅と菊の紋ちらしがあり、平ぐげの帯を締め、黒い十徳をつけ、あぐらをかいて、両手は膝におき、右指は小指だけ開いてあとは親指で三指をおさえ、左指は人差し指と小指を開いて、親指で二指をおさえた格好であったとのことです。小林正盛師によれば、「牙の像」と称する印とのことでした。
ところが、一向寺33世性譽満栄(桑門満栄)和尚代の明治34年2月8日の火災で一向寺が類焼した時に、田代三喜座像は焼失してしまいました。本堂は同年11月17日に再興されましたが、田代三喜座像は焼失したままでした。一向寺34世順阿孝亮(峯崎孝亮)和尚代の昭和8年4月15日に復刻発願され(彫刻師 川島政行)、昭和12年4月に開眼供養が行われ、現代に至っています。
文責:内科医師、一向寺第36世住職 向阿賢亮(峯崎賢亮)

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