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2018年9月 3日 (月)

田代三喜翁略伝 2

 享禄4年(1531)三喜67歳のとき、当時25歳の青年、曲直瀬道三に出会いました。道三は京都より足利学校にきて儒学(じゅがく)を学んでいました。そこで三喜の活躍を耳にして、自分も医学を修めたいと志して三喜の門をたたきました。三喜はこの青年の才能に気づき、自分の後継者として教育しました。
 死期の近き病床にあっても口述をもって伝授したといいます。心電図モニターやその他の電気機器などなかった当時の医者にとって、死期が徐々に近づいていることを知り、死を正確に判定するというのは、今の医者が考えるよりもはるかに難しく、重要であったと考えられます。おそらく三喜は道三にたいして、人間の死にゆく姿を、自分の体を実例にして教えたのではないでしょうか。このとき道三は枕元で聞いたことを記録して本にしました。
師の深い恩情に感激して涙を流し、その涙がすずりに満ち、それで墨をすって記録したことから、この本を「涙墨紙(るいぼくし)」と名付けました。師に対する恩の深さは、名前にも表れています。曲直瀬道三は諱(いみな)を正盛、字を一渓といいますが、後に三喜の名である導道の道と、諱である三喜の三をとって道三と号するようになりました。
 田代三喜は天文13年(1544)甲辰4月15日三喜79歳の時に古河で亡くなり、足利氏開基である古河永仙院(ようせんいん)に葬られました。同院の過去帳には法名、三喜一宗居士と記されています(異説としては(『三喜備考』)、天文6年(1537)2月19日七十三歳、古河で死去とあります)。
 曲直瀬道三は後に京都に帰って還俗し、第13代将軍足利義輝の御典医となります。そして京都で「啓迪院(けいてきいん)」という医学校を設立して医学教育を行い、三喜より学んだ医学を体系化して多くの本を著し、後進の指導にあたったため、道三流医学が江戸時代初期の主流となりました。田代三喜の、医学教育者としての一面を引き継いだ弟子といえます。
 永田徳本もまた、田代三喜から李・朱医学を学びました。曲直瀬道三よりも6歳年下なので、道三同様、三喜の晩年の弟子と考えられます。どんな治療をしても十六文しか受け取らなかったから「十六文先生」と呼ばれ、第二代将軍、徳川秀忠を治療した時も多額の謝礼を断り、「十六文で結構です」といったという逸話が伝わっています。田代三喜の、市井の医聖として、関東一円を往来して庶民の医療に従事した一面を引き継いだ弟子といえるでしょう。
 なお、田代三喜の墓地には三喜松という古松がありましたが、枯れてしまったため、樅(もみ)の木を植えて墓印にしたと伝えられています。時代が下り永仙院が廃寺となったため、墓印もわからなくなりましたが、昭和9年9月、古河出身の真言宗豊山派大僧正小林正盛師と増田亀丸氏の発願により、永仙院跡地に供養碑が建てられました。

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