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2021年12月31日 (金)

ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第十三回(令和4年正月)

 この原稿を令和3年10月に書いている。新型コロナウィルスに対するワクチン接種率も国民の70%に達し、長かった緊急事態宣言がようやく解除となった。未だ医療逼迫が続いていることもあり、手探りではあるが、少しずつ元の生活に戻りつつある。だが、これからが正念場であろう。経済立て直しが必要だろうし、国家財政もこのコロナ禍で赤字が膨らんでいる。コロナ禍のオリンピック・パラリンピックは無観客での開催であったので、オリンピック関連の借金も相当なものに違いない。一国民として、これからの国家の動向に注意を払いながらも、自分の生活を維持するために、眼前の問題を一つ一つ解決していかなければならないであろう。

コロナ禍の時代だからこそ、令和3年の『遊行』では、ドクターミネの研修医時代の師匠であるH教授(愛称おっさん)の訓戒を、二回にわたって紹介した。医学という自然科学の領域では、確かにロジック(論理)は重要である。例えば、予防の第一はマスク着用であるが、そもそもコロナウィルスの大きさは100nm、つまり一ミリメートルの一万分の一である。当然マスクの繊維の網目を楽々通り抜けることが可能な大きさである。大昔から風邪やインフルエンザといったウィルス感染予防にマスクが使用されてきたが、論理的に考えれば、本当に有効なのかが問題である。インフルエンザよりはるかに毒性も感染力も強力なコロナ対策のために、マスクが有用であるか否かを、科学的に証明するためには、まずは誰もが納得できる論理に基づいた実験デザインが必要であり、得られた結果も論理的に解釈する必要がある。現在では、論理に基づいた動物実験及びボランティアの医療従事者による臨床実験によって、マスクの有用性が証明されたために、それらを論拠として、世界中でマスク着用が推奨されているのである。

ただ、実際の医療現場では、患者とその家族に対して、証明された医学的事実に基づいて、論理的に説明するだけで、全て納得してもらえる訳ではない。いくら論理的に説明しても、感情が入ると、中々納得してもらえないこともある。そもそも脳は、論理的思考を司る領域と、感情を司る領域とは異なるのであるから、双方は連絡があるにしても、やむを得ないとも言える。これが、哲学の領域では「自然主義的誤謬(しぜんしゅぎてきごびゅう)」と言われるものだと、後に知った。情緒的な問題、倫理的な問題と、自然科学的な事実とは本来次元が異なるが、これを同一視することによって生じる誤りである。例えば、コロナに対するワクチン効果が科学的に証明されてきているが、これらの事実をもって、「だからワクチン接種を受けるべきである」といった倫理的結論を導き出せない、ということである。「でも私は受けたくない」というのは感情の問題であるから、いくら科学的根拠を示されたところで、中々翻意(ほんい)してくれないのはそのためである。「ワクチン接種を拒否する権利がある」と主張する人さえ世界中にはいると聞く。

 人間とは不思議なもので、理路整然とした論理で説明されても、必ずしも納得できないことがある。反論できないが、どことなく「胡散(うさん)臭い」という感情が残る場合がある。「納得」というのは、理性と感情の、両面があるともいえる。論理の展開に重要なのがIQ(知能指数)ならば、感情に訴えかける上で重要なのがEQ(心の知能指数)である。EQの高い人は、リーダーとして人をまとめることに長けているし、説得能力も高い。

 いずれにしても我々人間界は、言葉によりお互いが理解し合う世界、といえるであろう。以心伝心というぐらいだから、仏の世界はそもそも言葉を必要としない世界かもしれない。それでは「地獄」とは、言語道断、問答無用の世界ということか。

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