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2022年6月12日 (日)

ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第十五回

 コロナ禍のための外出自粛で、寺坊にこもる時間が多くなったことを利用して、二年掛で、難解で知られる西田幾多郎(にしだきたろう)先生の哲学を、小坂国継(こさかくにつぐ)先生の解説を頼りに格闘した。西田先生は、宗教の問題は我々が、自己矛盾的存在であることを自覚した時、我々の「自己存在そのものが問題」となる時に生じるのだという。そして自己存在の根本的な自己矛盾の事実は「死の自覚」にあるともいう。つまり宗教の問題は、価値の問題でもなく、より良く生きるため、というのはあくまで二次的な問題だという。死を前にして、自己存在が否応なく揺れ動くことによって生じる苦しみをスピリチュアルペインという。この苦しみについては、八年前の平成二十六年『遊行』お盆号から平成二十七年『遊行』お盆号まで「ドクター・ミネの毒舌健康法話」で説明した。例えば、仕事人間だった方が、自分の仕事を人に認めてもらうことに、生きがいを感じていたのに、死を目前にして、人生を振り返った時、自己矛盾的に、

「今までの俺の人生は、全く意味がなかったのではないか」

といった嘆きが生じる。これがスピリチュアルペインである。

 
 スピリチュアルペインは、終末期の癌患者が入院する、緩和ケア病棟でしばしば問題となるが、何も緩和ケア領域だけで起こるわけではない。特に介護が必要となった高齢者は、スピリチュアルペインの塊だともいわれている。ドクター・ミネも高齢者の一員となり、当然コロナワクチンも「高齢者枠」で接種を受けた。ただ、同じ終末期医療でも、老年期前の癌患者と、高齢者の場合とでは、特にスピリチュアルペインが少々異なるように思える。

 現役の内科医であった時代、ある高齢者から聞いた言葉である。

「先生は若いから、新聞は一面から読むでしょう。でも私たちの世代になると、新聞はまず「お悔やみ欄」から読みます。知っている名前がないと、ホッとします」

どうやら高齢になる程、死が身近な出来事に感じられるようである。また、当時七十代後半であった、戦争体験者の患者の話である。

「私は昔、零戦に乗っていました。出撃していくと、必ず何機か撃墜されました。自分一人が生還したこともありました。戦艦大和の最後の出撃も、飛行機の中から見送りました。この次の出撃では、死ぬのは俺だと思って、いつも出撃していました。でも、死ぬのが怖いと思ったことは、一度もありませんでした。それがこの年になって、先生の外来に通うようになって、正直、死ぬのが怖いのです」

また、当時八十代であった女性は、ちょっと咳が出ると、肺癌になったのではないか、ちょっと頭痛がすると、脳腫瘍になったのではないかと、しょっちゅう外来受診していた。検査をしても異常はない。いわゆる「癌ノイローゼ」である。ある時、その老婦人はこんなことをいった。

「娘時代、東京大空襲を経験しました。まさに火焔(かえん)地獄でした。隅田川には、大勢の焼死体がありました。若いお母さんが、せめて子供だけは助けようと、隅田川の中で、必死で子供を持ち上げて、その状態で子供共々焼け死んでいました。自分がどうして生き残ったのかわかりません。でもあの頃は、死ぬのが全く怖くなかった。80を過ぎて、この年になって、十分生きたはずなのに、死ぬのが恐ろしいのです」

どうやら、高齢になると、死に対する恐怖感は増すようである。

 サクセスフルエージングだの、アンチエージングなどという、老化に対抗するための宣伝が巷に溢れている。確かに老化に対する研究が進んでいることも事実である。一方で、老年的超越、つまり老いに逆らわず、ありのままを受け入れ、自然に任せるという方法、つまり仏教でいう「自然法爾」という老いの受け止め方もある。

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