ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第十六回
最近学生に、高齢者医療について「老いと向き合う」という題で講義をした。その中で、胃瘻(いろう)について説明した。胃瘻とは、経口摂取ができない患者に対して、外から直接胃に穴をあけて、チューブを設置し、そこから栄養のみならず、水、薬を投与する方法である。そもそも胃を含めた消化管は雑菌による感染に対して強いので、特別な滅菌処置は不要である。
しかも胃瘻自体が不要になれば、単に抜去するだけで、自然に塞がる。胃瘻は優れものだが、胃瘻によって生かされている姿を他人事として見ると、拒否感を持たれる方もいる。この胃瘻に関して、学生が書いたレポートの中に次のようなエピソードがあった。この学生の曽祖父は終末期において、病気の関係で経口摂食ができなくなり、胃瘻からの摂食をしていた。意識はしっかりしていたこともあり、妻(学生にとっては曽祖母)は毎食、夫の好きな物を細かく刻んで、あたかも口から食べさせるように、胃瘻から食べさせていたという。それを夫は満足そうに眺めていたそうである。
このエピソードを読んで、おそらくこの老夫婦と同年代と思われる、ある老夫婦のことを思い出した。老婦人が亡くなる1-2年前、夫が先にお浄土の人となった。しかし彼女はこの時入院中であり、葬儀に参列することができなかった。この老婦人が亡くなり、七七日(しじゅうくにち)忌に納骨したが、なぜか納骨に手間取っているようであった。納骨供養の後に、施主である息子さんに、なぜ手間取っていたのか、訳を尋ねたところ、笑いながら、こう言った。
「お袋は亡くなる直前、自分が死んだら、夫の骨壷と自分の骨壷が、離れ離れにならないように、縄で縛ってほしい、と言うのです。これがお袋の遺言ですから、親父とお袋の骨壷同士を一緒に縛っていたので、時間がかかりました」
ドクターミネは、涙が出るほど感激して、帰宅したら、真っ先に妻にこの話をしようと思った。しかし実際に妻の顔を見たら、ちょっと待てよと思い、口をつぐんだ。世の常として、男性である私が先にお浄土に行き、妻を待つことになるであろう。そして妻が臨終に際し、この老婦人のように、離れ離れにならぬように、骨壷同士を縛ってほしいと、遺言してくれれば、万々歳である。阿弥陀如来の後に従って、胸を張ってお迎えに行くことができる。しかし、例えば
「死んでからも、あの人とくっつきたくないから、骨壷同士をできるだけ離して頂戴!」とか
「死んでまであの人と一緒にいたくないから、別のお墓に私の骨壷を入れて頂戴!」
なんて言われてごらんなさいよ。阿弥陀如来に
「おい、お前の妻をそろそろ迎えに行くぞ」
とお誘いいただいても、どの面下げて迎えに行けばいいんだよ、という事になる。この感動話も、迂闊(うかつ)には話ができないぞ、と思い、つくづく、夫婦のあり方について考えされられた。最後に、宗祖一遍上人のお言葉で締めさせていただく。
それ、生死(しょうじ)本源(ほんげん)の形は男女和合(なんにょわごう)の一念。流浪(るろう)三界(さんがい)の相は愛染(あいぜん)妄境(もうきょう)
の迷情(めいじょう)なり。男女かたち破れ、妄境おのづから滅しなば、生死
本(もと)無にして、迷情ここに尽きぬべし。
(現代語訳:生死輪廻(りんね)する本源は、男女和合の一念である。三界を流浪するのは、愛欲に執着した迷いの心を持っているからである。男女の形が破れると、誤った心が自然に消えるので、生と死は本来実体の無い、仮の姿であると気づき、迷いの心は消えるであろう。現代語訳は、『一遍上人縁起絵』現代語訳研究会編より)
« 令和6年 一向寺通信(PDF) | トップページ | ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第十七回 »
コメント