ドクターミネの「老・病・死」を見つめる法話 第二十回
最近、妻からホトケノザ(仏の座)という雑草を教えられた。確かによく見ると、葉が仏の台座に見えるし、その上に咲く紫色の小さな花は、合掌している仏様に見える。今まで、雑草として目の敵にしていたくせに、急に愛らしく思えた。
そもそも花を見た時に、穏やかな、幸せな気分になるのはなぜか。脳の後頭葉という場所に集められた視覚情報が、眼球の奥に位置する「眼窩前頭皮質(がんかぜんとうひしつ)」という場所に届けられると、ドーパミンなどが分泌され、これによって、「美しい」「素敵だ」といった感情がもたらされるからである。これは人類共通なので、世界中の人達が、部屋に花を飾り、お祝いに花束をプレゼントする。お盆や彼岸では、お仏壇や墓所に生花をお供えするし、正月などの、いわゆる「ハレ」の日には、床の間や玄関に、生け花を飾る。特に日本では、「華道」という芸術にまで昇華させている。
仏様に生花や供物をお供えするのは、仏様に対する我々の「心遣い」である。「亡くなったあなたのことを、決して忘れていませんよ」という思いを形に表したものとも言える。日本人の伝統的なあの世感は、梅原猛(うめはらたけし)先生の著作『日本人の「あの世」観』によれば、あの世は、この世とアベコベの世界ではあるが、この世とあまり変わりない世界、という認識だという。確かに、葬儀の弔辞で「俺があの世に行ったら、また一緒にゴルフしようぜ」的な言葉を耳にする。仏膳は通常、私たちが普段食べているような物を、箸をつける前にまずお供えする、という伝統も、こういった日本人のあの世感の影響かもしれないと思う。そういう意味では、お盆も彼岸も、仏様にとっては「ハレ」の日なので、生花をお供えする意味も理解できる。
仏様に生花や供物をお供えするのは、仏様に対する我々の心遣いである以上、花が枯れるまで、ご飯が「カパカパ」になるまでお供えしているのは存外である。かといって、造花ならば枯れないからよかろう、缶詰ならば中身は腐らないからよかろう、という訳でもない。劣化をしない物をお供えすれば、我々はついつい安心して放置してしまう。これでは、仏様に対する心遣い、という供物の本来の目的から逸脱してしまう。平成20年「遊行」秋彼岸号で木本鑑乗(きもとかんじょう)師が指摘したように、あえて「枯れるもの、腐るもの、無くなるもの、減るもの」をお供えすべきだというのは正鵠(せいこく)を射た意見である。
一方、仏様に対する心遣いとしてではなく、生けられた「花」に焦点を当てた言葉がある。幸田(こうだ)文(あや)の随筆『こんなこと』に出てくる父の言葉である。彼女の父は、明治の文豪幸田露伴(ろはん)である。
「床の間の花瓶に枯れるまで花を活けておくな。枯れる前に花を処置せよ。花に惨めな思いをさせるな。」
「花に惨めな思いをさせるな」という発想には共感を覚える。しかも、処分ではなく、枯れる前に花を「処置」せよ、と指示している。これは露伴が、武家出身者であるが故の感性なのかもしれない。そもそも生け花は、花の持つ美しさを、観賞用に切りとって飾るものである。しかし花は、「きれいだ」「すばらしい」といった感情を、人間に呼び起こすだけのものではなく、花そのものに「尊厳」があるのだと露伴は言いたかったのかもしれない。処分も処置も、どちらも花を始末せよ、という指示には変わりないが、語感としては、処理の方が、手心を加える余地を持たせた表現である。だからこそ、花の持つ尊厳を、徒に損ねてはいけない、という意味で、「枯れる前に花を処置せよ」と指示したのであろう。「花には花の尊厳がある」という観点から、もう一度花を眺めてみようと思う。
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