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2010年9月10日 (金)

蓮池山無量院一向寺と田代三喜木像との関連

Photo_2 なぜ一向寺に田代三喜木像が安置されるに至ったについては、二つの説があります。

 一つの説は、田代三喜の墓がある永仙院が廃寺になるときに、ここに安置してあった田代三喜木像を永仙院の近くにあった一向寺に移して安置したというものです。もう一つの説は、古河史跡保存会作成の「医聖 田代三喜翁略伝」が採用した説です。

 古河に高橋三貞という田代三喜の弟子筋の医者がいて、この方が田代三喜木像を所持していました。しかしその子孫の代になり、家業が衰え、結局この木像を、古河台町にあった下野屋という質屋に手放しました。

 この質屋の一番奥の土蔵に大事に保管してあったのですが、主人である増田治兵衛に嫁入りし、まもなくその妻が奥の土蔵に入り、突然この木像をみて、驚愕のあまり、気絶したという珍事がおこりました。

 そこで増田治兵衛は、当時親交のあった一向寺第29世住職歓阿顕霊和尚に話し、弘化2年(1845)ごろに一向寺に奉納したとのことでした。

 実際の田代三喜像ですが、長さ2尺5寸(約75センチメートル)の座像で、服は赤色、金色で梅と菊の紋ちらしがあり、平ぐげの帯を締め、黒い十徳をつけ、あぐらをかいて、両手は膝におき、右指は小指だけ開いてあとは親指で三指をおさえ、左指は人差し指と小指を開いて、親指で二指をおさえた格好であったとのことです。

 小林正盛師によれば、「牙の像」と称する印とのことでした。

 ところが、一向寺33世性譽満栄和尚代の明治34年2月8日の火災で一向寺が類焼した時に、田代三喜座像は焼失してしまいました。

 本堂は同年11月17日に再興されましたが、田代三喜座像は焼失したままでした。一向寺34世峯崎孝亮和尚のとき、一向寺の有志のご寄付をいただき、昭和12年4月に模刻した現在の像が完成しました。(終わり)


参考文献

(1)矢数道明 『本邦後世派医学の開祖 田代三喜』(一九七九年)
(2)古河史跡保存会会長千賀覚次 『医聖 田代三喜翁略伝』(一九三二年)
(3)永仙院過去帳
(4)一向寺過去帳


2010年9月 9日 (木)

田代三喜の医学史上果たした役割

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 田代三喜は、名医の誉れが高く、それを伝える逸話も多いのですが、単に名医であったというだけであれば、木像まで作られて後世の人に像祀されることはなかったはずです。なぜなら、名医は一代限りであるため、その恩恵を受けた人たちが死に絶えれば、人の話題から消滅してしまうからです。

田代三喜の医学史の上での重要な働きは、以下の点であったと考えられます。


(1)当時中国で最先端の医学であった、李・朱医学を日本に伝えた。

(2)自ら医学教育を行ない、後世に名を残すような弟子を育てた。

(3)その結果、医と僧の分離のための先鞭をつけた。


 南北朝から室町時代にかけての外科は、頻発する戦争により、特に兵士の傷の手当ての必要性から急速に発展しました。「金創医」とよばれましたが、多くは陣僧として従軍していた時宗の僧侶が技術を習得して、その役目を務めました。

 一方内科は、室町時代中期ごろまでは、宋代に著された安易な治療方針である「和剤局方」が専ら日本全国を支配し、単純な宋医学の模倣という御粗末さでした。そんな時代に田代三喜は、李・朱医学を伝えたのです。

当時の東洋医学の最高峰であった李・朱医学は、実証的医学の先駆けであり、これが日本で初めての医学の流派、三喜流となりました。この三喜流を学んだ弟子は、曲直瀬道三、永田徳本をはじめ、数多く存在したため、後世派医学の開祖と呼ばれるようになりました。

 また、医僧分離の為の先鞭をつけたということも重要な実績です。田代三喜の時代は、医者になるためにまず、出家して僧となり、医師として独り立ちできるようになると還俗しました。曲直瀬道三も永田徳本もまた、まったく同じコースを歩んで医師となりました。

これは日本に医学を伝えた鑑真和尚が僧医であり、奈良時代に完成した僧医制度が、その後も存続した為です。おそらく室町時代においても主要な医学書は学問所を兼ねていた寺にしかなく、ひとかどの医者になろうと志したらまず、出家して僧となる必要があったのです。僧が医者を兼ねれば、どうしても宗教色が強くなります。

 もしむずかしい病気や病態に出くわしたと考えてみましょう。現代の医者であれば、まず先輩・同僚の医師に相談し、そして文献に当たり、その患者に合致する病態や病気を探し、治療法を検討します。必ずしも明快な回答を得られる訳ではなく、悩むものです。

もし僧が医者を兼ねていたら、薬師如来のような現世利益のある仏様のお力におすがりするために、護摩をたいて、一心に祈るという行動に出ても不思議ではないのです。

つまり僧と医が分離しない限り、いくら実証的医学の側面を持つ、李・朱医学が日本に伝えられても定着しません。実はどの国においても、医が宗教から分離することが、医の近代化にとって大変重要なことなのです。

 僧籍を離れた医師田代三喜が、最新知識を記した医学書を個人的に保有していて、それを用いて弟子達に医学教育をしていくことで、医と僧を分離させる先鞭をつけたのです。

しかも、三喜の志を継いだ愛弟子の曲直瀬道三が、同じように還俗して、京都で「啓迪院(けいてきいん)」と称する医学校を設立して医学教育を行うようになると、より一層、僧と医の分離が進みました。田代三喜は、医の近代化の第一歩を押し進めた人といえます。(続く)


2010年9月 8日 (水)

田代三喜翁略伝

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 田代三喜(1465ー1544)の名は導道、諱を三喜(三帰とも記す)、字を祖範といいます。範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、善道の多くの号もあります。

 田代家が歴史に登場するのは、今から820年前の嘉永・文治年間で、伊豆に田代信綱という侍が屋島の合戦で源義経に従って戦い、戦功をたてました。

信綱は医者を兼ねていたこともあり、子孫は代々医者となりました。その八世孫である兼綱は、関東管領家である扇谷上杉持朝に従い、武蔵国にはいりました。

 田代三喜は寛正6年(1465)4月8日、その兼綱を父に、武蔵国入間郡越生(おごせ)ないしは川越で生まれました。現在、埼玉県越生町には、田代三喜生地の石碑が建てられています。

 文明11年(1469)15歳のとき、臨済宗妙心寺派の某寺にて僧侶となりました。当時は僧侶にならなければ医者になれなかったからです。その後、関東第一の学校、下野の足利学校に入学しました。そこで第五世宰主東井之好和尚について医学を修学しました。

 しかし、日本での勉強にあきたらず、長享元年(1487)三喜23歳のとき、遣明使の船に便乗して明国にわたりました。当時の明国には、名医として名高い日本人医師、月湖が銭塘いて、三喜はこの月湖について医学の研鑽を積みました。

そして、合計13年間明国に滞在して、当時最先端の医学であった、金の李東垣、元の朱丹渓の医学(略して李・朱医学)を学びました。明応7年(1498)三喜34歳のとき、月湖の著書「全九集」や「済陰方」その他の医学書を携えて日本に戻りました。

 三喜はまず、鎌倉の円覚寺内に江春庵に居を構えましたが、まもなく、下野国足利に移り住むようになりました。当時の鎌倉は、将軍足利義教と関東公方足利持氏の戦い(永享の乱)、持氏の遺児成氏と上杉管領家との戦い(享徳の乱)の舞台となったため、荒廃していました。

一方、当時の足利は、関東の一大文芸の地であり、また母校足利学校もあり、おそらく旧友知人がいて、住み易かったと思われます。

 この地での活躍、特に連歌師猪苗代兼栽の中風の治療などの功績が、下総国古河(茨城県古河市)にいた、古河公方足利政氏(成氏の子)の目にとまり、永正6年(1509)三喜45歳のとき、古河公方の御典医に召されました。

 古河における三喜の医療は、まさに起死回生の功績が多大で、このころより「古河三喜」と呼ばれるようになりました。また三喜はこのころ還俗(僧侶からふつうの人に戻ること)して、妻帯したとのことです。

 古河公方足利政氏とその子高基は不仲であったため、古河の地を住み難いと感じた三喜は、数年して古河を去り、関東一円を往来して庶民の医療に従事しました。そして大永4年(1524)三喜60歳のとき、生まれ故郷である武蔵国に帰りました。

それでも時々、古河や足利にでむいて医療に従事していました。医学者としての三喜の代表的著書としては、三帰廻翁医書(三喜十巻書)、当流和極集、捷術大成印可集などがあります。

 享禄4年(1531)三喜67歳のとき、当時25歳の青年、曲直瀬道三に出会いました。道三は京都より足利学校にきて儒学を学んだ、三喜の足利学校の後輩でもありました。

三喜の活躍を耳にして、自分も医学を修めたいと志して三喜の門をたたきました。三喜はこの青年の才能に気づき、自分の後継者として蘊蓄を傾けて育成しました。

 死期の近き病床にあっても口述をもって伝授したといいます。心電図モニターやその他の電気機器などなかった当時の医者にとって、死期が徐々に近づいていることを知り、死を正確に判定するというのは、今の医者が考えるよりもはるかに難しく重要であったと考えられます。

おそらく三喜は道三にたいして、人間の死にゆく姿を、自分の体を実例にして教えたのではないでしょうか。このとき道三は枕元で拝聴して、それを記録して本にしました。師の深い恩情に感激して涙を流し、その涙が硯に満ち、それで墨をすって記録したことから、この本を「涙墨紙」と名付けました。このとき感激は名前にも表れています。

曲直瀬道三は初め一渓と名乗っていましたが、後に三喜の名である導道のうちの道と、いみなである三喜の三をとって道三としました。

 田代三喜は天文13年(1544)甲辰4月15日三喜79歳、足利氏開基である古河永仙院墓地に葬られました。同院の過去帳には、三喜一宗居士と記されています(ただし異説として「三喜備考」という本では、天文6年(1537)2月19日七十三歳、古河で死去とも伝えています)。

 曲直瀬道三は後に京都に帰って還俗し、第13代将軍足利義輝の御典医となります。そして京都で「啓迪院(けいてきいん)」と称する医学校を設立して医学教育を行い、三喜より学んだ医学を体系化して多くの本を著し、後進の指導にあたったため、道三流医学が江戸時代初期の主流となりました。

田代三喜の、医学者と医学教育者としての一面を引き継いだ弟子といえます。

 永田徳本もまた、田代三喜から李・朱医学を学びました。曲直瀬道三よりも6歳年下なので、道三同様、三喜の晩年の弟子と考えられます。どんな治療をしても16文しか受け取らなかったから「十六文先生」と呼ばれ、第二代将軍、徳川秀忠を治療した時も多額の謝礼を断り、「十六文で結構です」といったという逸話が伝わっています。

田代三喜の、市井の医聖として、関東一円を往来して庶民の医療に従事した一面を引き継いだ弟子といえるで
しょう。

 なお、田代三喜の墓地には三喜松という古松がありましたが、枯れてしまったため、樅(モミ)の木を植えて墓印にしたと伝えられています。

時代が下り永仙院が廃寺となったため、墓印もわからなくなりましたが、昭和9年9月、古河出身の真言宗豊山派大僧正小林正盛師と増田亀丸氏の発願により、永仙院跡地に供養碑が建てられました。(続く)