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田代三喜

2019年2月17日 (日)

2018.1122 茨城新聞

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2019年1月 9日 (水)

なで仏 と 六角堂が開眼供養されました

 平成30年11月17日の開山忌法要前に、開眼(かいげん)供養を厳修(ごんしゅ)しました。この石仏は、一向寺本堂内に安置している木像の田代三喜像を模刻したものです。
一向寺へのご連絡は、0280-22-0422 峯崎宅までお願い致します。

この度、病気の平癒を祈るための「なで仏」として建立致しました。お知らせ致します。


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☆六根清浄(ろっこんしょうじょう) : 眼,耳,鼻,舌,身,意を六根と呼び、修行することなどの功徳によって清らかになること。このとき六根は完全に調和した理想的状態にいたるという。登山する修行者が「六根清浄」と称えることもある。ドッコイショ、とは六根清浄のことであると言われている。

一向寺のフェイスブックページにも情報を掲載しております。    
      https://www.facebook.com/ikkouji/

2018年9月 3日 (月)

蓮池山無量院一向寺と田代三喜木像との関連

 なぜ一向寺に田代三喜木像が安置されるに至ったについては、二つの説があります。
一つの説は、田代三喜の墓がある永仙院が廃寺になるときに、そこに安置してあった田代三喜木像を、近くにあった一向寺に移して安置したというものです。
もう一つの説は、古河史跡保存会作成の『医聖 田代三喜翁略伝』が採用した説です。古河に高橋三貞という田代三喜の弟子筋の医者がいて、この方が田代三喜木像を所持していました。しかしその子孫の代になり、家業が衰え、結局この木像を、古河台町にあった下野屋という質屋に手放しました。
この質屋の一番奥の土蔵に大事に保管してあったのですが、主人である増田治兵衛に嫁入りし、まもなくその妻が奥の土蔵に入り、突然この木像をみて、驚いて、気絶したという珍事がおこりました。そこで増田治兵衛は、当時親交のあった一向寺第29世住職歓阿顕霊(かんあけんれい)和尚に話し、弘化2年(1845)ごろに一向寺に奉納したとのことでした。
実際の田代三喜像ですが、長さ2尺5寸(約75センチメートル)の座像で、服は赤色、金色で梅と菊の紋ちらしがあり、平ぐげの帯を締め、黒い十徳をつけ、あぐらをかいて、両手は膝におき、右指は小指だけ開いてあとは親指で三指をおさえ、左指は人差し指と小指を開いて、親指で二指をおさえた格好であったとのことです。小林正盛師によれば、「牙の像」と称する印とのことでした。
ところが、一向寺33世性譽満栄(桑門満栄)和尚代の明治34年2月8日の火災で一向寺が類焼した時に、田代三喜座像は焼失してしまいました。本堂は同年11月17日に再興されましたが、田代三喜座像は焼失したままでした。一向寺34世順阿孝亮(峯崎孝亮)和尚代の昭和8年4月15日に復刻発願され(彫刻師 川島政行)、昭和12年4月に開眼供養が行われ、現代に至っています。
文責:内科医師、一向寺第36世住職 向阿賢亮(峯崎賢亮)

田代三喜の医学史上果たした役割

 田代三喜は、名医のほまれが高く、それを伝える逸話も多いのですが、単に名医であったというだけであれば、木像まで作られて後世の人に像祀されることはなかったはずです。名医は一代限りであるため、その恩恵を受けた人たちが死に絶えれば、人の話題から消滅してしまいます。田代三喜の医学史の上での重要な働きは、以下の点であったと考えられます。
(1)当時中国で最先端の医学であった、李・朱医学を日本に伝えた。
(2)僧侶による医学教育から、現代にも通じる、医師が直接医学教育をするというシステムの先鞭(せんべん)をつけた。
(3)その結果、医療が宗教から分離された。

 南北朝から室町時代にかけての外科は、頻発する戦争により、特に兵士の傷の手当ての必要性から急速に発展しました。「金創医」とよばれましたが、多くは陣僧として従軍していた時宗の僧侶が技術を習得して、その役目を務めました。
 一方内科は、室町時代中期ごろまでは、宋(そう)代に著された安易な治療方針である「和剤局方」が専ら日本全国を支配し、単純な宋医学の模倣(もほう)というお粗末さでした。そんな時代に田代三喜は、当時の東洋医学の最高峰であった李・朱医学を日本にもたらしました。これは実証的医学の先駆けであり、三喜から医学を学んだ弟子は、曲直瀬道三、永田徳本をはじめ、数多く存在したため、後世派医学の開祖と呼ばれるようになりました。
 また医療の近代化の第一歩は、医学、医療が宗教から分離することです。田代三喜は、医と僧を分離するための先鞭をつけたということが最も重要な実績です。田代三喜以前の時代、医者になるためにまず、出家して僧となり、僧侶から医学を学び、医師として開業する際には還俗しました。これは日本に医学を伝えた鑑真和尚が僧医であり、奈良時代に完成した僧医制度が、その後も存続したためです。
おそらく室町時代においても主要な医学書は学問所を兼ねていた寺にしかなく、ひとかどの医者になろうと志したらまず、出家して僧となる必要があったのです。しかし、患者をほとんど診察したことのない僧侶が、医学書に書かれた内容を講義していたのでは、医学の進歩も、医療の進歩も望めません。ですからどうしても「まじない医療」が横行する結果となります。
 臨床経験の豊富な医師が、医学書に書かれたことのみならず、自らの医師としての経験を踏まえた内容を、医学生や研修医に教育するというスタイルは、現在ではどの国でも確立しています。実は日本においては、田代三喜と曲直瀬道三の師弟コンビが、まさに現代のこのスタイルを確立したのです。実証的医学とは、経験的事実の観察・実験によって積極的に証明していく医学のことですが、いくら李・朱医学が実証的であったとしても、臨床経験のない僧侶が、単なる知識の伝達として講義していたのでは、実証的な医療にはつながりません。
 現代にまで受け継がれた田代三喜の最大の功績は「医師が、医学生や研修医に対して医学教育をする」というスタイルの先鞭をつけたことです。江戸時代になれば、田代三喜がもたらした李・朱医学は過去のものとなり、明治以降はドイツ流の西洋医学、そして現代ではアメリカを中心とした西洋医学が基本となっていますが、実証的な医学を実践するための、その基礎となる医学が、時代とともに変化しただけのことなのです。
現代医療においても、田代三喜・曲直瀬道三の師弟コンビが確立した「医師が、医学生や研修医に対して医学教育をする」というスタイルによって、医学知識も、医療技術も、そして医師としての倫理も受け継がれています。

田代三喜翁略伝 2

 享禄4年(1531)三喜67歳のとき、当時25歳の青年、曲直瀬道三に出会いました。道三は京都より足利学校にきて儒学(じゅがく)を学んでいました。そこで三喜の活躍を耳にして、自分も医学を修めたいと志して三喜の門をたたきました。三喜はこの青年の才能に気づき、自分の後継者として教育しました。
 死期の近き病床にあっても口述をもって伝授したといいます。心電図モニターやその他の電気機器などなかった当時の医者にとって、死期が徐々に近づいていることを知り、死を正確に判定するというのは、今の医者が考えるよりもはるかに難しく、重要であったと考えられます。おそらく三喜は道三にたいして、人間の死にゆく姿を、自分の体を実例にして教えたのではないでしょうか。このとき道三は枕元で聞いたことを記録して本にしました。
師の深い恩情に感激して涙を流し、その涙がすずりに満ち、それで墨をすって記録したことから、この本を「涙墨紙(るいぼくし)」と名付けました。師に対する恩の深さは、名前にも表れています。曲直瀬道三は諱(いみな)を正盛、字を一渓といいますが、後に三喜の名である導道の道と、諱である三喜の三をとって道三と号するようになりました。
 田代三喜は天文13年(1544)甲辰4月15日三喜79歳の時に古河で亡くなり、足利氏開基である古河永仙院(ようせんいん)に葬られました。同院の過去帳には法名、三喜一宗居士と記されています(異説としては(『三喜備考』)、天文6年(1537)2月19日七十三歳、古河で死去とあります)。
 曲直瀬道三は後に京都に帰って還俗し、第13代将軍足利義輝の御典医となります。そして京都で「啓迪院(けいてきいん)」という医学校を設立して医学教育を行い、三喜より学んだ医学を体系化して多くの本を著し、後進の指導にあたったため、道三流医学が江戸時代初期の主流となりました。田代三喜の、医学教育者としての一面を引き継いだ弟子といえます。
 永田徳本もまた、田代三喜から李・朱医学を学びました。曲直瀬道三よりも6歳年下なので、道三同様、三喜の晩年の弟子と考えられます。どんな治療をしても十六文しか受け取らなかったから「十六文先生」と呼ばれ、第二代将軍、徳川秀忠を治療した時も多額の謝礼を断り、「十六文で結構です」といったという逸話が伝わっています。田代三喜の、市井の医聖として、関東一円を往来して庶民の医療に従事した一面を引き継いだ弟子といえるでしょう。
 なお、田代三喜の墓地には三喜松という古松がありましたが、枯れてしまったため、樅(もみ)の木を植えて墓印にしたと伝えられています。時代が下り永仙院が廃寺となったため、墓印もわからなくなりましたが、昭和9年9月、古河出身の真言宗豊山派大僧正小林正盛師と増田亀丸氏の発願により、永仙院跡地に供養碑が建てられました。

田代三喜翁略伝 1

田代三喜(1465ー1544)は、名が導道、諱(いみな)を三喜(三帰とも記す)、字(あざな)を祖範といいます。また、範翁、廻翁、支山人、意足軒、江春庵、日玄、善道など、多くの号を用いていたとも言われています。
 田代家が歴史に登場するのは、今から800年以上前の嘉永・文治年間で、伊豆に田代信綱という侍が屋島の合戦で源義経に従って戦い、戦功をたてました。信綱は医者を兼ねていたこともあり、子孫は代々医者となりました。その八世孫である兼綱は、関東管領家である扇谷上杉持朝に従い、武蔵国にはいりました。
 田代三喜は寛正6年(1465)4月8日、その兼綱を父に、武蔵国越生(おごせ)ないしは川越で生まれました。現在、埼玉県越生町には、田代三喜生地の石碑が建てられています。文明11年(1479)15歳のとき、臨済宗妙心寺派の某寺にて僧侶となりました。当時は僧侶にならなければ医者になれなかったからです。その後、関東第一の学校、下野の足利学校に入学して修学しました。
 しかし、日本での勉強にあきたらず、長享元年(1487)三喜23歳のとき、遣明使の船に便乗して明国にわたりました。当時の明国には、名医として名高い日本人医師、月湖(げっこ)が銭塘江(せんとうこう)の近くにいて、三喜はこの月湖について、当時最先端の医学であった、金の李東垣、(りとうえん)元の朱丹渓(しゅたんけい)の医学(略して李・朱医学)を学びました。そして、合計12年間明国に滞在して、明応7年(1498)三喜34歳のとき、月湖の著書『類証弁異(るいしょうべんい)全九集』や『大徳済陰方』その他の医学書をたずさえて日本に戻りました。
 三喜はまず、鎌倉の円覚寺内江春庵(こうしゅうあん)に居を構えましたが、まもなく、下野(しもつけ)国足利に移り住むようになりました。当時の鎌倉は、うち続く戦乱のために、町が荒廃していました。一方当時の足利は、関東の一大文芸の地であり、母校足利学校もあり、おそらく旧友知人がいて、住み易かったと思われます。
 この地での活躍、特に連歌師(れんがし)猪苗代兼栽(いなわしろけんさい)の中風の治療などの功績が、下総(しもうさ)国古河(現茨城県古河市)にいた、古河公方足利政氏(成氏の子)の目にとまり、永正6年(1509)三喜45歳のとき、古河公方の御典医(ごてんい)になりました。古河における三喜の医療は、まさに起死回生の功績が多大で、このころより「古河三喜」と呼ばれるようになりました。また三喜はこのころ還俗(げんぞく)(僧侶から俗の人に戻ること)して、妻帯したといわれています。
 古河公方足利政氏とその子高基は不仲であったため、古河の地を住み難いと感じた三喜は、数年して古河を去り、関東一円を往来して庶民の医療に従事しました。そして大永4年(1524)三喜60歳のとき、生まれ故郷である武蔵国に帰りました。それでも、古河や足利にでむいて医療に従事していました。医学者としての三喜の代表的著書としては、三帰廻翁医書(三喜十巻書)、当流和極集などがあります。

医聖 田代三喜翁木像と蓮池山無量院一向寺の関連

 本堂に向かって左の部屋に安置しております木像は医聖 田代三喜(たしろさんき)です。
田代三喜は室町時代末期の偉大な医師であり、医学教育者でした。特に、田代三喜とその直弟子である曲直瀬道三(まなせどうさん)(1507-1594)、永田徳本(ながたとくほん)(1513-1630)は、医聖と呼ばれています。
日本医学中興の祖ともいわれていますが、その功績は単に、当時としては最新の漢方医学を日本に導入したということばかりではありません。「医師が、医学生や研修医に対して医学教育をする」という、現代では万国共通のしくみを、愛弟子である曲直瀬道三とともに作り上げたことです。
これこそが「我が邦(くに)、名医多しといえども、像祀(ぞうし)せらるるは、古来ただ鑑真(がんじん)と田代三喜とあるのみ」(富士川游『日本医学史』)と、その功績が鑑真と並び称されてきた所以(ゆえん)です。
その功績を認めていた方が北里柴三郎博士であり、自らが会頭をつとめた第二回医学会総会(明治26年4月4日-10日)では、かつて日本の医療を支えてきた医師達の功績を忘れないようにと「医家先哲遺物陳列会」を開催しました。当時一向寺に安置していた田代三喜像も陳列され、多くの医家に感銘(かんめい)を与えました。

2016年3月 7日 (月)

田代三喜祭り・お花祭りを開催いたします。

下記の日程で田代三喜祭り・お花祭りを開催致します。豪華景品も用意して、多くの方のご参加をお待ちしています。
    日 時:平成28年 4 月 3 日(日曜日)
              午前11 時より午後 3 時まで   
  場 所:一向寺境内 
   参加費:無料
各種模擬店、舞台ショー、大抽選会あり。小児用遊具も用意し ます。小雨決行(ただし舞台ショーは中止)
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